【エッセイ】「デブのカップル」と思われることが恥ずかしすぎて、肥満な恋人と出歩くことに耐えられなかった
太っている自分がたまらなく恥ずかしい──ままならない体型に対するこの激しい羞恥心は、筆者自身だけでなく、彼女の大切な恋人にまで深い傷をもたらした。 この記事は、愛をテーマにした米紙「ニューヨーク・タイムズ」の人気コラム「モダン・ラブ」の全訳です。読者が寄稿した物語を、毎週日曜日に独占翻訳でお届けしています。
二人きりのときは恥を忘れられる
ジェイソンと付き合っていると、心から安心できた。 43歳の私はそれまで、恋をしたのは一度だけだった。車の助手席に座ると(私がいまよりずっと痩せていた頃の話だ)「お前、これがほしいんだろ?」と言いたげに、私の太ももの間に指を突っ込んでくるような男だった。 ジェイソンは絶対にそんなことをしない。優しくて思いやりがあり、ゴミ男ではないから。でも安心できる理由はそれだけじゃない。彼が、私みたいに太っていたことも大きかった。 何年か前に彼と一緒に仕事をしたことがあったが、そのときは軽くいちゃついただけだった。のちに、激しくいちゃつくようになっていくのだが。ジェイソンについて笑えるのは、バナナが大嫌いということだ。彼を怖がらせたければ、バナナの皮をむき、何も切れない可愛い剣のように振り回して追いかければいい。 それなのに、彼は私を口説きながら、人生で食べたことがないくらいおいしいバナナクリームパイを焼いてくれた。グラハムクラッカーとねっとりとしたバナナのフィリングの間にチョコレートガナッシュの層が入っているパイだった。この人は、私のためにバナナに何度も触ってくれたのだ。これはすごいことだ。 ジェイソンは私がデートしてきた男性のなかで、一緒にいて自分の体を恥ずかしく思わずに済む、初めての人でもある。私たちは二人とも、太っていることへの羞恥心を内面化していたが、二人きりだとそれが帳消しになるみたいだった。 チキンウィングとチリチーズフライを注文し、一晩で映画を2本見た。彼の隣に座り、自分の二重(もしくは三重)あごがどんなふうになっているか気にすることもなかった。彼はベッドで後ろから抱きついてくると、私のでっぷりとしたお腹にしっかりと手を置いたが、私はその手をマシな場所にそっと動かさなくてもよかった。というのも、私たち二人のうち、私の方が「標準体型」に近かったから。 私が「標準体型」に近い体型というわけではなく、彼よりはまだ近いということだ。 大学生の頃から、私は「肥満」から「重度の肥満」を示すBMI指数を保持してきた。BMIというのは、よく言って不正確、悪く言えば人種差別的なものだ。ベルギーの数学者がつくり出したこの指数の平均値は、ヨーロッパの白人男性の身長と体重に基づいているから。 私は、ボディ・ポジティブ運動(体のサイズ、形、肌の色、ジェンダー、身体能力に関係なく、すべての身体に対して前向きな見方をする社会運動)に関わる人が「中太り」と呼ぶタイプだった。女性の場合、サイズは20~24(3XL~4XLくらい)。 「ファテゴリー(太り具合によるカテゴリー)」の数については意見が分かれるところだが、一番上は「インフィニファット」または「デスファット」と呼ばれる。これは作家のレスリー・キンゼルが「病的肥満」という非常に疑わしい概念を揶揄するためにつくった言葉だ。
Courtenay Hameister