「あの人かっこいいよね」と言われて「どこが?」は絶対ダメ…そのとき賢い人が切り返す「8文字の相槌」
嫉妬心を抱いてしまったら、どう対処すればいいか。教育学者の齋藤孝さんは「たとえば自分が好意を持っている人に好きなタレントがいて『あの人かっこいいよね』と言われたとき、『どこがいいわけ』などと言ってはいけない。そうではなく、嫉妬心や妬みの感情が大きくならないうちに、相手をほめちぎってそれらの感情を追い出してしまうのがベストだ」という――。 【この記事の画像を見る】 ※本稿は、齋藤孝『自分を動かす魔法』(三笠書房)の一部を再編集したものです。 ■人との比較で何一ついいことはないが抜け出せない いまはほとんどの人が子どものころから、誰かと比較して、自分のほうが上だとか、下だとか判断するのがクセのようになっています。 たとえば勉強については、テストの点数や偏差値など、自分の評価がはっきり数字で出ます。運動にしても、体力測定や球技の得点力など、数字が明確に示されます。 何かと数字で比較され、喜んだり、落ちこんだりしてしまうのです。 数字にあらわれないことについても同じです。たとえば、 「自分より勉強ができないあの子が学級委員に選ばれるなんて」 「うちもお金持ちだったら、あの子みたいにかっこいい服を着られるのに」 「あの子くらい積極性があったら、友だちがいっぱいできるのに」 「どうして女子からは嫌われているあの子が、あこがれの先輩の彼女なの?」 など、誰かと比較しないと自分を認識できないようになっている感すらあります。 けれども「自分が劣っているところ」や「自分にはないもの」を考えたところで、気持ちは暗くなる一方です。自己肯定感も下がります。 残念ながら、こうして身についた“比較グセ”は、大人になってもなかなか抜けません。「比べていいことなどない」とわかっていてもなかなかむずかしい。
■「優劣」ではなく「違い」ととらえる 誰かと何かを比べるのがよくないのは、そのとき、つい「優劣」をつけてしまうからです。これが落ちこみのもと。 では、優劣ではなく「違い」ととらえてみるとどうでしょう。 幻の童謡詩人と呼ばれた金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」という詩にあるように、 「みんなちがって、みんないい」 ということになりますね。 「自分は自分。ほかの誰かと比べることに意味はない」 というシンプルな事実に気づきます。 自分を主語にして、ものごとを考えられるようになるのです。 「違い」は「個性」という言葉にも置きかえられます。 そんなふうに考えられるようになると、コンプレックスという概念そのものがなくなるのではないでしょうか。 ■誰よりも“藤井聡太情報”に詳しいことを突き詰めてみる とはいえ、それでも他人と自分を比べてしまうことはあると思います。それがふつうです。それならむしろ「人にはなくて自分にあるもの」に注目するといい。 そんなにすごいことでなくてもいいから、「自分にはこれがある」というものを見つけられると、人よりすぐれているとか劣っているとかが気にならなくなります。 「自分がはまっていること」「自分が好きなこと」「自分が得意なこと」「自分が詳しいこと」など、何でもいい。 そういうものが、この先も自分を肯定して生きていく「心の支え」になるのです。 たとえば、ぼくの教え子のある学生はフリートークの授業で、「将棋のことなら話せる」といって一年間、毎週、将棋の藤井聡太棋士の話だけをしました。 誰よりも“藤井聡太情報”に詳しいことに加えて、数学が得意だったようです。毎回、藤井棋士がどれだけ強いかを、数値化して紹介していました。 また別の学生は、鉄道が大好きで、ものすごく詳しい。どの路線のどの駅がおもしろいとか、この列車はここがすごいとか、話しはじめたら止まらない感じでした。 彼らが夢中になって話していると、それを聞いている学生にも熱意が伝染するのでしょう。一生懸命に耳を傾け、「へえ」を連発しながら、「すごいね」「よく知ってるね」「おもしろいね」と、ほめ言葉を投げかけていました。 そういう反応がまた、彼らの自己肯定感を高めることにつながったのです。 しかも、鉄道好きの彼は、鉄道の話を披露したことで、同じように鉄道好きの学生がクラスにいることが判明。二人は授業が終わってからも、ずっと仲よく、楽しそうにしゃべっていました。 得意なものや好きなものがあったら、ちょっと究めてみる。どこで役に立つかわからないけれど、鉄道好きの彼のように、楽しい人間関係が手に入ることもあります。