「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#46
米軍機搭乗員3人の殺害に対して、41人に死刑が宣告された石垣島事件。最終的に7人に死刑が執行されたが、そのうち4人は「命令に従った」実行者たちだった。しかし、横浜裁判にかけられた他の米軍機搭乗員の処刑事案では、実行者でも将校のみを起訴し、下士官以下は被告にすらなっていない事件もあった。この差はなぜ生まれたのかー。 【写真で見る】東海軍が捕虜を殺害した現場
最初は極刑 のちには無罪も
前回紹介した、石垣島事件関係者の赦免勧告の文書と同じファイルに、<正義の叫びで『戦犯』を釈放しましょう>と題した冊子が綴じられていた。 サンフランシスコ平和条約が発効し、戦犯たちの釈放を求める活動が活発化する中で、一般の人向けに戦犯について知ってもらおうと作った冊子のようだ。 その中に「命令を受けて戦犯になった人たち」に関する項目があった。 (冊子「正義の叫びで『戦犯』を釈放しましょう」より) <命令に服従しても共同謀議> 軍に於いて命令は絶対に服従されねばならぬことは、恐らく世界共通の常識でありましょう。しかるに初期の戦犯裁判ではこれを認めようとせず、処刑の命令者はもとより、命令を伝達した者、命令を実行した者、その処刑の準備をした者、警戒に当たった者等は、ことごとく共謀して罪を犯したものとし、死刑又は終身刑の極刑に処せられました。後に、命令に服従した者に対しては、情状を酌量するということになり、少々軽い刑を与えられ、最後には命令に服従した行為は問わぬこととして不起訴となり、又は無罪の宣告を与えられることになりました。目下服役している戦犯は、初期或いは中期に裁判を受けた人達で、方針の変化にも拘わらず、最初の判決のまま放置されているのであります。 〈写真:「正義の叫びで『戦犯』を釈放しましょう」冊子の一部(国立公文書館所蔵)〉
石垣島事件の減刑は
石垣島事件の横浜裁判での初公判は、1947年11月26日。そして判決は翌年、1948年の3月16日だった。この時に41人に絞首刑が宣告された。 その後、1949年1月末の再審で、絞首刑は13人にまで減った。減刑された28人の内訳は、絞首刑から無罪が3人(いずれも水兵)。重労働5年から20年の有期刑となったのが18人(うち16人が水兵)、終身刑になったのは7人(下士官と水兵)だった。 〈写真:絞首刑になった石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)〉 最終的には、1950年3月18日の再々審で司令の井上乙彦大佐、副長の井上勝太郎大尉、処刑の現場を仕切っていた榎本宗応中尉、一人目の搭乗員を斬首した幕田稔大尉、二人目を斬首した田口泰正少尉、そして三人目を最初に銃剣で刺した藤中松雄一等兵曹、二番目に刺した成迫忠邦上等兵曹、この7人の絞首刑が確定した。 再々審で6人がぎりぎりで減刑され、絞首刑を免れたと言っても、炭床静男兵曹長ら5人の下士官は最高40年の重労働という厳罰のままだった。 また、再審で終身刑に減刑された下士官や水兵にとっては、再々審の減刑者が、自分たちより軽い有期刑であることに大きな不満を持った。 〈写真:井上乙彦大佐の再々審決定書〉