「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#46
西部軍「起訴されたのは将校だけ」
一方、約33人の捕虜を処刑した西部軍のケースでは、 「司令官の中将ら32人が起訴され、司令官をはじめ、参謀副長、法務部長など9人の死刑判決が下された。そのなかには、処刑に参加した3人の将校も含まれている。ただし全員、死刑から終身刑に減刑され、死刑になった者はいなかった。この裁判では命令を受けて処刑を実行した者にも厳しい判決が下されたが、起訴されたのは将校だけであり、下士官以下は起訴もされていない。そうした点でも命令下に行った行為については、下士官以下の者は免罪されていたと言ってよいだろう」 BC級戦犯裁判(林博史著)より 〈写真:西部軍司令部(福岡市・米国立公文書館所蔵)〉
なぜ石垣島事件では実行者も死刑に
先の戦犯釈放運動の冊子では、「初期或いは中期」の戦犯裁判では命令に従った者も情状酌量されなかったと説明されている。 横浜裁判の審理が始まったのは、1945年12月18日、終結したのは1949年10月19日だ。石垣島事件の裁判が始まったのは、1947年11月なので、中期にあたる。 確かに、藤中松雄は「命令に従った」と法廷で訴えたのに情状酌量されることなく、絞首刑を宣告され、しかも最後まで覆ることはなかった。しかし、ほかの裁判と比べると、石垣島事件の判決は極端に重い。 絞首刑を執行された7人のうち、下士官は藤中松雄一等兵曹と、成迫忠邦上等兵曹の二人だけだ。命令によって米軍機搭乗員を銃剣で刺した28歳と26歳の青年は、なぜ死刑から逃れられなかったのかー。 〈写真:横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)〉 (エピソード47に続く) *本エピソードは第46話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。