【私の視点】 「とめ男」はどこに行った?
伊藤 芳明
カイロ駐在のオフィスが面した裏通りには、掃除のおばさんやタクシー運転手がいつもたむろし、しばしば騒動が持ち上がった。 「ロバ野郎」「お前の頭は靴」──ののしり合い、見物人を巻き込んで、あわや殴り合いに発展という時になると、必ず「とめ男」が登場し、騒動がうそのように収まっていく。ベランダから観察していると、とめ男は双方に疲れが見え始めた絶妙のタイミングを見計らい、満を持して登場してくるのが見えてくる。 当事者が疲弊し、これ以上続けると人材が枯渇し、インフラが破壊され、あるいは国際社会から孤立して、国家として立ちいかなくなる。絶妙な時を見極めての仲介は、国際紛争の調停にも共通するものがある。 現在のウクライナや中東における戦闘では、民間人の犠牲が日々積み上がり、タイミングは到来しているように見えるのに、「とめ男の不在」が続いている。本来、国連こそとめ男たるべき存在ではないのか? 国連事務総長がとめ男として紛争解決の舞台で華々しく活躍した時代が、かつては確かにあった。ハマーショルド事務総長(スウェーデン出身)はスエズ動乱(1956~57年)の際に国連緊急軍を組織し、イスラエル・アラブ双方を調停した。 イラン・イラク戦争では、デクエヤル事務総長(ペルー)が1988年7月、国連本部に呼びつけた両国外相と膝詰めで談判し、停戦合意にまでこぎつけた。両外相の首根っこを力づくで押さえつけているのが見て取れた。 事務総長がとめ男の役割を果たせなくなった転機は、ブトロス・ガリ事務総長(エジプト)時代ではないかと思う。旧ユーゴスラビア内戦で、明石康・事務総長特別代表を派遣。明石代表は精力的に武装勢力間の調停を行ったが、8000人が死亡するスレブレニッツァの虐殺(1995年7月)を阻止できず、国連の権威低下が顕著になった。 ガリ氏は国連の役割や予算配分をめぐってクリントン米政権と対立。1996年に再選を目指して立候補したが、米国が拒否権を行使し、2期目が拒否される初のケースとなった。 安倍、菅政権への霞が関の対応を思い起こすまでもなく、人事権を握られると官僚は腰砕けになる。「再任拒否事件」で、常任理事国に人事権を握られている現実が露呈し、事務総長の権威は地に落ちた。以降、コフィ・アナン(ガーナ)、潘基文(韓国)、グテーレス(ポルトガル)と歴代事務総長は常任理事国の顔色をうかがい、協調姿勢に徹している。 ロシアが当事者のウクライナ侵攻、中国が当事者の南シナ海紛争、イスラエルの背後に米国が控えるガザ、レバノンの戦闘。常任理事国が関わる紛争では、事務総長はとめ男の役回りを回避する姿勢が顕著である。 グテーレス氏は気候変動、ジェンダーなどの課題に自らの「居場所」を求めているように見える。とめ男の役を果たせるよう国連改革を進めることこそ、本来の課題だろう。
【Profile】
伊藤 芳明 ジャーナリスト。1950年東京生まれ。1974年、毎日新聞入社。カイロ、ジュネーブ、ワシントンの特派員、外信部長、編集局長、主筆などを務め2017年退社。2014年~17年、公益社団法人「日本記者クラブ」理事長。著書に「ボスニアで起きたこと」(岩波書店)「ONE TEAMの軌跡」(講談社)など。