世界的指揮者・佐渡 裕に聞く「クラシック音楽の可能性」
佐渡には来年、大阪・関西万博のオープニングを飾るという大役も控えている。クラシック音楽の楽しさを多くの人に広めようとさまざまな活動を続けてきた彼が、今回、クラシック音楽の視聴体験を変えるApple Music Classicalのクラシック音楽の楽しさを深める新コンテンツ『ストーリー・オブ・クラシカル』日本版の案内役に選ばれたのも適任だったように思える。
ところで「譜面を見て勉強」というのは、具体的にどんなことをするのだろう。 「何をやるかは人によってさまざまだと思いますが、まずは楽譜にある情報の整理です。例えばピアノをやっている人なら右手と左手の2段の楽譜を見たことがあるでしょう。これが例えば来年の1月に指揮するマーラーの交響曲第8番の指揮者用楽譜だと30段近くになります。演奏中はこの30段が同時に進行するのです。そこにラテン語やドイツ語の歌詞なども書かれています。譜面を見て例えば、この段とこの段は同じことをやっているとか、ここまでは同じことをやっていたが、ここからはズレる、といった情報をまずは一度、理解して整理する必要があります。私はここからメロディーが始まってここで終わる、と思ったらそこに句読点のような印をつけたりと、結構譜面に書き込みをします。楽譜があるからその通りに演奏すればいいだけと思う人も多いかも知れませんが、決してそんなことはないのです。」 佐渡は母親が音楽をやっていた影響で、「曲を聴いて音を書き留める」など曲の情報の整理に近いことを小さい頃からやっていたという。 「小学生の頃、オーケストラの楽譜を買ってもらってベートーヴェンの交響曲がどんな風に構成されているかを読み解くような遊びに、まるでテレビゲームにハマるように夢中になりました」。譜面を見て「ここはファーストヴァイオリンがメロディーだ。ヴィオラはその時こんなことをやってるんだ」と子供ならではの自由な発想で分析し、その後、菜箸を指揮棒代わりにして振っていたという。中学、高校では吹奏楽部も経験した。また、プロの指揮者になる前には、高校生の吹奏楽部やママさんコーラスの指揮をした経験もあり、そうした音楽活動の中で感じた幸福感は、今でもプロの楽団を指揮する時、自分の中で1つの基準になっているという。 ところで佐渡が活躍した35年間は、レコードからCD、デジタル音楽プレーヤー、そして音楽配信と音楽を取り巻く環境が大きく変わった時代でもあった。佐渡はこうした環境変化をどのように受け止めてきたのか。 「自分の部屋は大きな壁の半分はCDで埋まっています。でも、今はそれがパソコンやスマートフォン1台に全部収まる。前は演奏旅行先にもカバンの中にたくさんのCDや、オペラの公演前はVHSのビデオテープなんかを詰め込んで移動していたのが、今ではそれがいらない。衝撃的ですよね」と佐渡。 「でも、一方で私はオーディオマニアなところもあって、そうしたものの利便性も受けながら、今でもレコード、特に蓄音機の音を楽しむこともよくあります。蓄音機で音楽を聞くとルイ・アームストロングが本当に自分の2~3m先でトランペットを吹いているかのような、生の音を聞いているような印象を今でも受けます」 最近、佐渡が持ち運びやすさ以外で認めているデジタル音楽配信サービスの価値は、その資料性と検索性だという。指揮者による解釈の違い、オーケストラによる演奏の違い。同じ曲であってもまったく演奏が変わるのがクラシックの面白みだという佐渡。 「例えば、わかりやすいベートーヴェンの『運命』を、Apple MusicClassicalで聴き比べてみてください。ジャジャジャジャーンという冒頭のテーマなんて誰がやっても同じと思うかも知れませんが、カラヤンの指揮かバーンスタインかだけでも全然違っています」 Apple Music Classicalは、2024年1月から日本でも提供が始まったアップル社による世界最大のクラシック音楽専門音楽配信サービス(Apple Musicの利用者はそのまま無料で使える)。佐渡はこのサービスの日本のアーティストアンバサダーに就任している。佐渡自身は、譜面の解釈で悩んだ時などに活用しているという。 「例えば譜面の通りのテンポで休みなく演奏を続けるとオーケストラが窮屈になってしまったり、楽譜にはだんだん遅くと書いてあるけれど、その通りに演奏をすると、元のテンポに戻れないといった矛盾する箇所がしばしばあるんです。そんな時、例えばバーンスタインやカラヤンや小澤征爾といった名指揮者らはどのように処理をしているのかを参考にするといった使い方はしています」 Apple MusicClassicalといえばもう1つ。佐渡は今年10月末に公開されたクラシック音楽とその背景にあるストーリーを紹介する全9回のオリジナル音声番組『ストーリー・オブ・クラシカル』で案内人を務めた。英語圏で好評だった番組の待望の日本語版だ。 「いやー、これは面白かったですね。バッハやヘンデル、モーツァルトといった作曲家たち。彼らがなぜ誕生したのか、というところにはちゃんと背景があったんですよ。それを凄く丁寧に説明した番組です。ジャンルとしても古典派や、もっと前から始まって坂本龍一さんを含む現代の人たちまでを紹介し、僕が知らない作曲家もたくさん出てきました。全部を聴くのには多少時間はかかるのですが、音楽史を知るのはなかなか面白いなと僕自身が思いながらガイドを務めました」 個人的にバッハとヘンデルのくだりが一番面白かったらしいが、自分の解説の後で、自分とはなかなか縁のない美しいグレゴリアン聖歌などが流れる様子にも感動したという。 「長い歴史の中で、有名な曲がどのように誕生したかの話も面白ければ、普段は意味がわからないと思っている現代曲も背景ではこのように繋がっていたんだな」などと学びが多い仕事だったようだ。 「クラシックのお勧めを聞かれたら、私だったらエレガントで美しい音楽を聴きたい人にはきっとモーツァルトを勧めます。自分の気持ちをブレないようにしたい人にはベートーヴェン、元気にして欲しい人にはチャイコフスキー、ハードロック好きな人にはストラヴィンスキー、彼女と一緒に聴きたいという人にはラフマニノフ。このように、クラシック音楽は実は凄く幅が広いのです」 そんな中、どんな人と出会って、どんなきっかけで音楽への興味を広げていくのか、これからはテクノロジーがそうしたところでも活用されるのかも知れないと佐渡は予想している。ただ、そんなテクノロジーの時代になっても「生演奏」の魅力が消えることはないとも強調する。 「音楽コンテンツと呼ばれる世界では、音程のハッキリした演奏、間違いのない音源だけが残っていきます。でも、音楽って本来は一発ものなんですよ。台所で音楽を聴いたり、通勤中にヘッドホンで聴いたりと色々な音楽の聴き方があっていいと思います。一方で、例えば週末に友達のバンドの演奏会に行ったら、友達が目の前でトランペットの音を外すかも知れない……でも、そんなハプニングにも生だからこその興奮を得られるーーそういう体験も、これからますます大事になっていくと思っています」 佐渡 裕(さど・ゆたか) 1989年、新進指揮者の登竜門であるブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。95年レナード・バーンスタイン・エルサレム国際指揮者コンクールで優勝。パリ管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団等、欧州の一流オーケストラに多数客演を重ね絶大な人気を誇る。2015年よりオーストリアで110年以上の歴史を持つトーンキュンストラー管弦楽団音楽監督に就任。国内では兵庫県立芸術文化センター芸術監督、新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督等を務める。