「なぜ情報を出してるんだ、馬鹿者~!」父に殴られ、3度は眼鏡を壊した 「眼鏡のまち」でV字回復の地元企業、IT出身の息子のネット情報戦略
◆見て盗まれるノウハウは本当のノウハウじゃない
──技術の会社が工程などを外部に公表することは、競争力の原泉をバラすことにもなります。この点はどのようにお考えでしょうか。 僕は、父親に「見て盗まれるノウハウはノウハウじゃない」と言っていました。 製造業において、チタン加工は非常に難しいですけども、1個2個という単位なら加工ができるわけです。 だけど、チタンの難しいところは、量産加工で同じ品質の製品を作るのが最も困難な点です。 難点をどうクリアするか、どういったノウハウが必要かというのは、実は目に見えないところに隠されています。 だから自信を持って情報発信していました。 当時、日本国内の様々なメーカーが、中国製の安価な商品に対抗するため、より付加価値の高い商品開発を模索していた時代でした。 情報発信の結果、チタン加工技術を使って付加価値の高い商品開発をしたいメーカーが日本中にあることを初めて知りました。 ──ホームページで、どのような問い合わせが来るようになりましたか。 具体的にはちょっと言えないんです(笑)。 ただ、西村金属の技術で世に出た商品っていうのはいっぱいあります。 そして、顧客がどんどん新しく変わっていき、売り上げ全体の約8割が眼鏡以外になり、眼鏡業界依存体質から脱却しました。 もし眼鏡だけにこだわっていたら、本当に会社がなくなっていたかもしれません。
◆ペーパーグラスは、父の夢の結晶でもあった
──「第3創業」のペーパーグラスは、どのような経緯で開発したのでしょうか。 眼鏡業界の依存体質からの脱却を実現しましたが、下請け体質は変わりませんでした。そして、2009年頃、リーマン・ショックが起きます。 さまざまな業界の仕事をして経営は安定化に向かいましたが、やはり世界的な景気に左右されるような事象が起きれば、やはり下請け体質では厳しいというのをリーマン・ショックで実感しました。 だから、下請け体質からの脱却をしていくため、下請けからメーカーとなり、コストコントロールができる仕事を社内に持つことで、安定した経営体質を作ろうとしたのが、開発のきっかけです。 実はこの大ヒット商品は、父が温め続けていたアイデアの結晶でもあったんです。 ──お父様の夢だったのですか。 父親の夢は「やっぱり完成品メーカーになりたい、そして世界に行きたい」でした。 2003年頃に私が戻ってきたとき、父が自社商品の開発に取り組んでいました。 ペーパーグラスの原型です。 当時は「しおり」の商品名で、たたむとしおりのようになるというコンセプトでした。 ペーパーグラスと違うのは、売ることは外部に任せてしまった点です。 結果、1回きりの注文で終わってしまった。 そのときに感じたのは、これはすごい商品だと。 「なんでこんな良いものが世の中に伝わらないんだろう」と思っていました。 この商品がもつ価値、可能性、世界観が、全く世の中に伝わってなかった。 その当時から、ゆくゆくは絶対に「薄い眼鏡」で乗り出してやろうという思いを腹に抱えてきました。 ──父親と喧嘩しながらも、その父親のアイデアをうまくマーケティングして世に出すということを考えていたのですか。 2009年頃はSNSが普及し始め、従来は検索型でしか届けられなかった情報が、SNSを活用してプッシュ型で届けることができるようになってきました。 どんな小さなメーカーでも、直接お客様に世界観と商品を届ける時代に変わったのです。 ──2012年にペーパーグラスが再販されます。お父様にはどのように伝えたのですか? いや、何も言っていないです(笑)。 ──そのときに西村さんが現在代表取締役を務める「西村プレシジョン」を別会社として始めたのですか。 実は、西村プレシジョンは父がもともと用意していた会社です。 西村金属のつくる部品を中国に輸出することを目的につくった会社で、父はゆくゆくは西村金属を私の兄が継ぎ、私は西村プレシジョンで西村金属の部品を世界に輸出する役目をやってほしいと勝手に思っていました。