飲酒後に異様なだるさを感じた1ヶ月後「睾丸が痛い」→医師「生存確率はほぼ0に近い」男性を襲った病とは
「超希少がん」との向き合い方
病気が判明したとき、翔さんは海外赴任中でタイに滞在していました。タイの有名私立病院はとてもしっかりしているため、タイで手術することへの抵抗は大きくはなかったといいます。翔さんは、会社が提携している国際医療コンサルタントに相談し、次のような理由で手術を決断しました。 まずは、日本で手術する場合は、帰国して再検査する行程も考慮すると1~2ヶ月かかるのに対し、タイでは3日後に手術できること。そして、翔さんのがんの進行速度を考えると、いち早く手術しないと致命的になる可能性があったこと。さらに、翔さんが通っていたタイの私立病院が信頼できる病院であったことが理由でした。 国際的にも非常に高い評価を受けている病院で、医療設備も充実しており、日本語通訳や日本人医師も在籍しているという点でも安心感があったといいます。 しかし「1年生きたらいい方だ」と告げられたときは、絶望的な感情になったという翔さん。さらに「ここまできてしまうと、5年10年先はもうないし、治療がうまくいっても1年はもたない」とも言われたそう。これらの言葉から、初めて自分の命の終わりを明確に意識したといいます。 そんな翔さんは、効かないと言われていた薬が劇的に効き、職場復帰できるまでに回復しました。これには、運を引き寄せるためには強い意志が必要なことから「ずっと近くで支えてくれていた妻や家族や友人、会社の同僚のおかげかなと思っています」と話す翔さん。しかし、薬の効果が持続する中央値は2年間と言われています。そのため、これからはその期間をどれ程のばせるか、次の薬で何を選択するかなどの選択も重要になり、戦いは今でも続いています。 「すべてを受け入れる」と、翔さんが前向きに考えるようになったきっかけの一つは、妊孕性温存を検討する際の奥様との会話です。若い世代の場合、がん治療の前に妊孕性温存というものをすることがあります。それは抗がん剤により生殖機能に影響がある事を鑑み、男性でいうと精子を冷凍保存するものです。 いつかは奥さんとの間に子どもが欲しいという思いが強かった翔さん。しかし、それは自分勝手な気持ちであり、精子凍結をしに行かない方がいいのではないかとも思ったといいます。というのも、たとえ子どもが生まれたとしても片親となるし、何より自分がいなくなった場合に、奥さんに大きなプレッシャーや負担を与えると考えたためです。 そんな奥さんは、あまり自分の意志を言わず、翔さんがやることにもやらないことにも一切口を出してこない寛容で温厚な性格だといいます。しかし、翔さんが病院にいくのをやめようとしたときに、奥さんから「私は2人の子どもが欲しいし、たとえ1人でも子どもを育てる自信がある。何よりも、翔ちゃんがなんだかんだ生きている未来が、私はまだ想像できる」と、声を震わせながら言われたそうです。おそらく、翔さん自身が心の奥底で「もう生きられない」と悟っていることを思ってのこと。翔さんはこの言葉を聞いた瞬間、すべてを受け入れようと思ったそうです。