柄谷行人回想録:文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係
柄谷行人さん(82)は、戦後長きにわたって国内外の批評・思想に大きな影響を与えてきた。柄谷行人はどこからやってきて、いかにして柄谷行人になったのか――。そのルーツから現在までを聞く連載の第15回。 【写真】舞台「劇的なるものをめぐってⅡ」より。主演は白石加代子
――柄谷さんは1980年前後から、いわゆる文芸批評を離れていきます。 柄谷 最近になって気づいたんだけど、僕はすでに70年代半ばには、文学の現場からはみ出していた。この頃、文学以外の領域の人たちと出会ったことも、大きなきっかけでした。これも僕が望んだことじゃない。向こうからやって来たんですよ。その1人は、鈴木忠志です。 《鈴木忠志は、1939年静岡県生まれの演出家。劇団SCOT(Suzuki Company of Toga)主宰。早稲田大学在学中から学生劇団で活躍、別役実らと劇団早稲田小劇場を創立。1976年から富山県利賀村(現・南砺市)に本拠を移した。下半身を重視した俳優訓練法「スズキ・トレーニング・メソッド」でも知られる》
新たな経験だった鈴木忠志の演劇
柄谷 73年に、編集者を通じて鈴木さんから連絡があった。僕の「マクベス論」を読んだ、舞台を見てほしい、と。それで、早稲田小劇場で白石加代子主演の「劇的なるものをめぐってⅡ」を見ました。変な演劇でね。 ――ヨーロッパでも上演されて評判になった伝説的な舞台です。 柄谷 白石さんが、悲劇的なシーン、ふつうの日本の演劇だったら泣き崩れるようなところで、たくわんをかじるんだよね。衝撃的だった。 ――演劇と柄谷さんの関係でいえば、初期の論考は、「マクベス論」はもちろん、漱石論の「意識と自然」でもシェークスピアが重要なモチーフですが、演劇にも関心はあったんでしょうか。 柄谷 僕のシェークスピア論は、文芸評論であって、演劇論ではないですね。それに、「マクベス論」は、直接には言及してはいないけれども、当時あった連合赤軍事件を意識したものでした。僕には演劇への関心はなかったですね。というより、むしろ意図的に避けていた。(妻の)冥王まさ子が学生時代から演劇をやっていて、文学座の養成所に入ったし、さらに東大の大学院ではシェークスピアを専攻していたので。 ――冥王さんが研究と実践のど真ん中にいたからこそ、避けていたということですか。 柄谷 そういう面がありました。お互いに、棲み分けていたんです。それでも、僕も新劇を見ることはあった。ただ、アングラとか小劇場の演劇は見てなかったんです。 ――1960年代以降、鈴木忠志、唐十郎、寺山修司などそれまでの新劇に対抗するような形で、前衛的な演劇が次々に登場していました。 柄谷 この頃前衛的と見なされたものは、アングラ演劇も現代詩もよく知らなかった。僕は、政治的にも文学的にも“前衛”とは縁遠かった。バカにしていたわけではないんですよ。ただ、積極的な関心はなかった。僕は、自分にわからないものについては、わかったふりや共感したふりをしないと決めていた。だから、鈴木さんからのアプローチは、意外だった。 ――実際に舞台を見たり、話したりしてみてどうでしたか。 柄谷 自分と通じるものを感じましたね。「劇的なるものをめぐってⅡ」で、女優の白石加代子は形而上学的な事柄をしゃべりながらたくわんをかじる。言葉と行動が極端に乖離している。しかし、思えば、それは僕が「マクベス論」で言おうとしたことと違わない。つまり、人間は自分が考えているのとまるで違うことをやってしまう、ということなんです。 ――なるほど。それで柄谷さんの「マクベス論」に関心を持ったんですね。 柄谷 何でか、というのは分からないよ(笑)。初対面のときにも、そんな話にはならなかった。鈴木さんは、僕に劇を見た感想も聞かなかったしね。 ――88年創刊の雑誌「季刊思潮」は、鈴木忠志、哲学者の市川浩とともに編集人に名を連ねていますね。 柄谷 鈴木さんに声をかけられたから、承諾しただけだったんだけど、少し後でそこに磯崎新や市川浩が加わってくると、これまでになかった新しい「思潮」が生まれたと思う。さらに若い浅田彰が入って、それがはっきりしたものになった。そして、「季刊思潮」が「批評空間」につながっていった。 ――そもそも、鈴木さんとの出会いがなかったら、「批評空間」もなかったわけですか。 柄谷 そういうことになりますね。僕は、自分から組織的な活動を始めるようなことはしないし、できないからね。鈴木さんは、2000年代には静岡で、「有度サロン」という知識人や芸術家の間での交流を意図したイベントのシリーズを主催していたので、それにも関わりました。もちろん彼は演出家で、それも歴代の日本の演劇人のなかで世界的に最も高い評価を得た人でしょう。だけど、それだけではなくて、オルガナイザーというかフィクサーというか、場をつくる名人でもあります。たとえば、僻地の富山県の利賀村に移住して、地元の人たちと大変な苦労をしてつきあいながら、そこで世界的な名物になった演劇祭をつくりあげていった。今でも利賀村は、演劇村として有名です。鈴木さんは、コロナで公演ができなかったときには、地元の人たちが維持できなくなった畑を借り受けて、劇団員と一緒に野菜づくりをはじめて、たちまちエキスパートになってしまった(笑)。今では、畑をやる若い人たちを県外から迎え入れたりしているんですよ。年をとっても、ダイナミックなところは変わらないなあ、と思ってみています。