「まずいコメの産地」から躍進! 北海道米が全国に認められるようになったワケ コメ高騰続くなか今年の収穫は?
蘭越町でコメ作りが始まったのは明治31年。 当時は寒さに強いとされた「赤毛」という品種からコメ作りが始まりました。 さらに時代をさかのぼると、赤毛米の始まりは蘭越町ではありませんでした。
向かった先はー (宮永キャスター)「北広島市の島松です。ボーイズビーアンビシャスで有名なクラーク博士の記念碑。その横に、寒地稲作この地に始まるという碑があるんです。実は北海道のお米が広がっていった、そのきっかけとなった赤毛米がこの場所で保存栽培されているんです」 寒さが厳しい土地では不可能と言われたコメ作り。 そのコメ作りを可能にした人物が、現在の北広島市島松に入植した中山久蔵でした。
道産米の生みの親?中山久蔵とは
(宮永キャスター)「中山久蔵さんが北海道にコメを広めた最初の人?」 (北広島市エコミュージアムセンター 畠誠学芸員)「そうですね。安定的な収穫を得られたので、明治6年に成功して全道的に広まったのは明治12年ということです」 中山久蔵の生涯を描いた漫画があります。 その中身を見てみるとー
(中山久蔵)「種もみもらってきたのに…発芽せんなぁ…」 明治6年、寒い北海道の地で始めた「赤毛」のコメ作り。 水が冷たすぎたため、お風呂のお湯を使うなど試行錯誤したのちー (中山久蔵)「緑の葉、出てる!」 (北広島市エコミュージアムセンター 畠誠学芸員)「中山久蔵さんのその努力とこの赤毛が寒い所で育つのに適していたというか、そういう遺伝子を持っていて、その両方が合わさってより寒い地域に普及していったと思います」
進み続ける品種改良
この赤毛米をきっかけに、現在に至るまで品種改良が進んでいきます。 すると… いまや北海道が誇るブランド米「ななつぼし」や「ゆめぴりか」へとたどり着くのです。 中山久蔵の努力と赤毛米の発展がなければ、いまのおいしい北海道米は生まれていなかったのかもしれません。 赤毛米が北海道米のルーツ、いわば先祖というわけなんですね。