早朝に鳴った携帯「俺、W杯落ちた」 届いた数百件のメッセージ…印刷して読んだ日々【インタビュー】
元日本代表MF細貝萌の半生、日本代表の常連になったがまさかのW杯落選
2024シーズン限りで現役を引退したザスパ群馬の元日本代表MF細貝萌にとって、2014年ブラジル・ワールドカップ(W杯)への選出を逃したことは、キャリアの中でもつらい歴史になった。落選を知ったのは、意外な人物からのメール。そして、代表キャリアにおける日々には後悔もあった。(取材・文=轡田哲朗/全6回の3回目) 【写真】元日本代表GK、”妻”なでしこ田中陽子との「偽家族写真」「嫁かと思った笑笑」 ◇ ◇ ◇ 2010年シーズンを浦和レッズで戦い終えてドイツ移籍した細貝は、その約半年前にあった南アフリカW杯後に就任したアルベルト・ザッケローニ監督から数多くのゲームに招集されてきた。W杯へのアジア予選はもちろん、2011年のアジアカップや2013年のコンフェデレーションズカップにも選出された。 「当時は毎回呼ばれていて、代表合宿に来て、クラブに戻って、次いつだよねという話になって。どことの試合が終わったら飛行機に乗ってというサイクルで動くと自分で把握していた」という生活を続けてきた。その生活の節目になったのは、ヘルタ・ベルリンで1シーズンのプレーを終え、選出が当落線上から有力という評判で迎えた2014年ブラジルW杯への代表発表だった。 日本時間で5月12日の午後に行われたメンバー発表だが、細貝は「実はドルトムントとの最終戦をした翌日(実際には2日後)が発表だったんですけど、38度6分くらいの状態で試合をした直後だった。発表はドイツ時間の朝だったけど体調も悪くて、オンタイムでTVも見ていなくて、風邪明けで寝込んでいた」のだという。 その細貝が落選を知ったのは、意外な形だった。 「携帯が鳴って画面をパッと見たら、野球の涌井から『残念だったな』というメールが来ていて。それが最初に知ったキッカケだったんですよね。涌井が一番、早かった。俺、これW杯落ちたんだなって」 横浜高校から西武ライオンズに入団したプロ野球選手の涌井秀章とは、同じ1986年生まれで交流があったのだという。サッカー関係者でも家族でもなく、違うスポーツの友人からの連絡でW杯への選出を逃したことを知った細貝だが、その胸に去来したのは「申し訳ない」という思いが大きかった。 「その時、両親が最終戦に合わせてドイツに来ていて、リビングに降りたらもう起きていて、インターネットか何かで追っていたと思うけど、『残念だったね』と。その時は悲しかった。自分が落ちた事実は実力不足で呼んでもらえなかっただけだからいいけど、家族や両親、涌井もそうだけど、少なからずW杯で頑張ってほしいと思ってくれていた人、サポーターやベルリンのチームメートに気を遣わせてしまっている事実が悲しくて申し訳なかった。 自分に能力があればW杯に行けたわけで、落ちたことに関しては、行きたかったし、行けなくて悲しかった。ただ、それは自分の中だけで良いもの。それを周りの方に共有してしまうこと。落選してたくさんの方から、サポーターも含めメッセージをもらったし、友人も身内で今まで一緒にいた家族にも、本当に申し訳ないと思った。当時やっていたホームページに数百件のメッセージをいただいて、スタッフにプリントアウトしてもらって全部読み返した。これだけたくさんの人が応援してくれていたんだと思うことで、より申し訳ない気持ちが強くなった。それが一番、悲しかった」 細貝のA代表選出は、ザッケローニ監督が指揮した4年間の間に30試合だった。次のサイクルからは選出がなく、この数字がプロキャリアでの記録として残る。1回でも選ばれること、出場することがどれだけ大変なことかを考えれば、十分に偉大な記録だ。 それでも自身は、この代表チームに呼ばれ続けた日々を「もっと大切にできたと今では思う」のだという。 「これは当たり前じゃないというのを、もっと自分自身が感じて活動すべきだったと今では思う。そういう活動をしていれば、もっと日本代表での存在感も含め、30試合ではなくもっと試合に絡むこともできたのかなという後悔も強い。 その時期をもっと大切にしていれば、W杯にも絡むことができたかもしれない。アジアカップを優勝したことで、コンフェデレーションズカップにも行かせていただいたけど、本大会には出られなかった。これは、自分の能力不足だとシンプルに思っている。代表を軽視はもちろんしていないのだけど、もっと自分の中で代表が何かというのを考えていれば、W杯のピッチに立つ可能性が上がったのかな。そういう自分の中での後悔がある」 この日本代表で出場した30試合の中で、多くの人の記憶に残るのが2011年アジアカップ準決勝の韓国戦だろう。PKのこぼれ球を押し込んだ一撃の舞台裏には、自身がプロキャリアの中で信念として持っていたものがあった。
轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada