原爆を見つめた2人の学長 広島大学で企画展「長田新と飯島宗一」
広島大の前身・広島文理科大で学長だった長田(おさだ)新(あらた)氏(1887~1961年)と、広島大第4代学長の飯島宗一氏(1922~2004年)。同郷で同窓、同じ大学の学長を務め、原爆がもたらした被害に熱心に向き合った2人の足跡を紹介する展示「信州から来た2人の学長、原爆を見つめる 長田新と飯島宗一」が、広島大医学部医学資料館(広島市南区)で開かれている。 【写真特集】毎日新聞記者が撮った被爆1カ月の広島 「広島大学創立75+75周年記念事業」の一環。広島大は1949年創立で、最も古い前身校の白島学校が設立された1874年から数えると、2024年は150年の節目となる。前半の75年の学長を代表して長田氏、後半の75年では飯島氏を取り上げた。 2人とも長野県出身で、諏訪中学(現諏訪清陵高)の卒業生。その生涯を県民性や母校からひもとくと共に、広島との出会いや原爆との関わりを示すパネルや書籍などを展示している。 広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島文理科大の教授だった教育学者の長田氏は自宅で被爆。同年12月から学長に就任し、大学の復興に努めた。その後、長田氏は広島で原爆を体験した子ども1175人の作文を集めて編集し、51年に手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を出版した。105人分を収録し、序文で84人の作文を部分的に紹介している。 出版翌年の52年、作文を書いた子どもたちは「原爆の子友の会」を結成し、彼らをねぎらう集会も開かれた。展示では、当時作文を寄せた1人の早志(はやし)百合子さん(88)がその時の写真を提供し、教室に集まった子どもたちが長田氏から本を手渡されている様子や、集合写真などが並ぶ。 病理学者だった飯島氏は、米軍が接収していた被爆直後の解剖資料を返還させるなどした。69年に46歳の若さで広島大学長に就き、東広島市へのキャンパス移転など大学改革を主導。72年に発足した「広島大学原爆死没者慰霊行事委員会」の委員長を務め、74年8月には原爆死没者を追悼する碑を建立した。 被爆30年の75年には、大学の被爆状況や被爆、被災した学生・職員らの記録「生死の火 広島大学原爆被災誌」を刊行。飯島氏が広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)に寄贈したものを今回展示している。飯島氏は母校の名古屋大の学長も務めた。 展示を企画した原医研の久保田明子助教は「広島出身ではない2人が大学人として、広島の大学がどうあるべきか考え、原爆のことに尽力した。その功績と併せ、信州についても知ってもらえたらうれしい」と話している。 入場無料。12月25日まで、平日午前10時~午後4時。土日祝日休館。【根本佳奈】