水原一平氏の違法賭博問題をテレビ局はどう報じたか フジ記者の強引な取材と解釈に疑問
「取材に対して答えて」いる?
記者としての経験から言うと「知らないよ。俺は何も…」という声を根拠に、「水原氏の父親が賭博について知らなかった」事実として報道できるものか、疑問に思った。 取材の状況からして、水原氏の違法賭博について知っていたのか、知らなかったのかを質問し、それに対して相手が考えて回答した、という状況ではない。むしろ取材そのものを拒絶されたと考えるべきだ。「そんなの知らない。テレビに言うことなどない。帰ってくれ」という意味で発言していると思える。つまり、「ノーコメント」という意味だ。 そもそも取材する側は、この声の主が一平氏の父親であることを確認できて放送したのだろうか。心配してかけつけた友人や知人という可能性はないのか。映像を見る限り、この前後にドアホン越しに会話して確認できたとはとても思えない。そもそも相手との間に会話が成立していない。 取材というのはある種の信頼関係があってこそ、「確かな事実」を入手できるものだ。水本記者の取材内容を見る限り、筆者にはこれが「確かな事実」だとは思えない。事実をじっくり確認したのか? 確認が「甘い」のではないか? 疑問が強く残る。
見え隠れする安直さ
相手はいきなりの訪問に明らかに驚き、嫌悪感を露わにしている。強引なドアホン越しの撮影と音声の録音は一種の“暴力”ではないのだろうか。 もちろん報道の仕事では、事件にかかわった人から事情を聞くことで新たな事実がわかることがある。関係者を取材することがすべていけないとまで言うつもりはない。 ただ、取材した映像などを放送するにあたっては、それが妥当なのかどうかを検討する必要がある。このケースでは、水原氏本人のコメントを取ることができないため、締切までに関係ありそうな人には誰でもいいから話を聞いてしまえ、という安直さが見え隠れする。 水原一平氏の“違法賭博”疑惑には、両親は何の関係もない。もし関係あると考えてテレビが取材しているのならば、「親の育て方が間違っていたのではないか?」とする前時代的な処罰感情があるのではないか。息子がトラブルをしでかして衝撃を受けている両親に対して、テレビの「弱い者いじめ」にしか見えない。 本人がコメントしないからと、肉親を取材しようとする安易さとデリカシーのなさ……。小さな子どもが被害に遭った凶悪事件で、両親に取材できないために遠くに住む祖父母のコメントを取る取材に似ている。 実際にテレビニュースを見ていると、民放の夕方ニュースではこうした報道がときおり目につく。こうした行為が特にZ世代の若者たちには「報道の仕事って、弱って傷ついた人たちの傷口に塩を塗り込むようなものですよね?」という拒絶感につながっている。筆者の周辺でも、若者の「報道」に対する印象は悪化するばかりだ。 相手のプライバシーを脅かすカメラの暴力……。だからテレビは「マスゴミ」などと言われるのではないか。水本記者のドアホン取材を見て感じた。 案の定、SNSでは水本記者の取材に「マスゴミ」「迷惑系YouTuberと同じ」などと批判が集中した。FNNプライムオンラインは、今もネット上にこの取材の記録を残したままだ。