追悼。カープの鉄人・衣笠祥雄さん「骨折でもフルスイング」
「駒さん! 元気!」 かん高い声と、くちゃくちゃの笑顔。 それがいつもの衣笠祥雄の挨拶だった。 4日前にたまたま聞いていたテレビの解説で声がかすれていた。何年か前に病に倒れたと聞いてから心配していたが、また体調が悪くなったのかなと気になった。亡くなる直前までグラウンドにいた。 「野球が大好きな」 サチらしい最後だったのかもしれない。 「鉄人」と呼ばれた男が、あまりにも早く……さみしい……本当にさみしい。 筆者はスポーツ新聞のカープ番記者として入団時から衣笠を取材していた。 京都の強豪工である平安高校で、肩とバッティングと足もあるキャッチャーとして1964年のセンバツ、夏と甲子園で活躍して、広島に入団したが、キャンプでは1日キャッチャーをやっただけで、もうマスクはかぶらなかった。痛めていたのか、その一日で痛めたのか、肩が壊れたのだ。自暴自棄にもなったのかもしれなかった。国民栄誉賞も受賞した人格者の衣笠からは、想像もできないかもしれないが、プロに入った当時の数年は、“ヤンチャ”だった。 契約金で高級外車であるフォードのギャラクシーを買って乗り回した。親会社がマツダということも手伝って、当時広島のレギュラークラスは、ほとんど国産車を乗っていたから、2軍暮らしの若造が外車を乗ってきたのは、とんでもない異端児で、しかも、壁かなんかに車をぶつけて事故をした。後から聞くと、車を貸した友人が事故を起こしたらしいが、当時の長谷川良平監督が、「免許証か、ユニホームか、どっちを球団に返すのか」と迫って、免許証を取り上げた。ちょうど、その頃、心配した木庭教スカウトと一緒に旧広島市民球場の近くの三篠にあった「三省寮」の衣笠の6畳一間の小さな部屋を訪ねたことがある。 「野球をやめたら、何をする気だ?」 困った顔をした衣笠に温和な木庭さんが詰め寄った。 「野球をやりたいのか、やめるのか」 後々、衣笠は、節目、節目で、この問いかけを自分自身にしたという。 とりわけ1979年は、衣笠の野球人生を語る上で重要な1年になった。 今でも覚えている。5月28日。岡山県営球場。打率が2割をきり、極度のスランプに落ち込んでいた。連続イニング出場記録は「678」試合で、残り22試合で阪神の三宅秀史氏の持つ「700」の日本記録に手が届くところだった。その衣笠を試合前に古葉竹識監督が監督室に呼んだ。 「今日は休もうか」 古葉監督は、そう切り出して、衣笠は「わかりました」とうなずいたという。 監督室の前で私は待っていた。だが、真っ赤な目をして悲壮感漂う顔で出てきた衣笠に声をかけることができなかった。後から聞けば、思い悩み、数日、眠れない日が続いていたという。 その何日か前にも、古葉監督は、弱音を吐く衣笠を「野球は一人でやるんじゃない!」と、こっぴどく叱っていた。チームプレーの鏡となる衣笠の原点である。