追悼。カープの鉄人・衣笠祥雄さん「骨折でもフルスイング」
だが、連続試合出場記録は続いていた。古葉監督も、「その記録だけは守ってやりたい」という話をしていた。悪いことは重なるものなのだろう。 同じ年の8月。巨人戦で西本聖のシュートが左肩を直撃。そのまま病院に直行したが、レントゲンにはヒビが入った肩甲骨が映し出されていた。全治2週間。「病院が大嫌い」な衣笠は入院を拒否して自宅へ帰る。激痛が走り左腕は動かなかった。 眠れない。うつらうつらしている間に動かないはずの左腕がほんの少し動いたという。動いたというより曲がったと言ったほうがいいかもしれない。 翌日、衣笠は古葉監督に出場を直訴した。古葉監督の前で素振りをして見せた。古葉監督は7回に代打で使った。巨人の江川卓の前に三球三振だった。 衣笠は後に、「記録のためではない。チームのため、支えてくれている人のため、西本のために試合に出たかった」と語っている。ここで記録を途絶えさせれば、西本が責任を感じて、その選手生命に影響が出ることを心配したのだ。衣笠とは、そういう男だった。現役時代に受けた死球数は当時の歴代2位の161個である。 そして骨折して打席に立った空振りの三振も、最後は持ち前のフルスイングだったーー。 「ホームランにはこだわりがあるんですよ」 衣笠に何度か聞かされた哲学のひとつだ。 衣笠の入団4年目に根本陸夫監督が就任すると、衣笠を一塁のレギュラーで使った。 「おまえの売りはなんだ?」と根本監督に問われたところから、あのバットを長く持ち、ヘルメットが吹き飛ぶほどのフルスイングがスタートする。 当時からメジャー通だった衣笠は、ウィリー・メイズのスイングを真似ていた。 振って、振って、振りまくる。 やがて、そのスタイルだけでは壁にあたるが、1970年に関根潤三氏が打撃コーチになると「感性だけじゃダメだ」と、打撃フォームをことこまかに教えられた。ステップの大きさ、バックスイングの深さ、トップの位置、ふりだしの角度……理論に裏づけされた打撃技術である。 そして、そのスイングを固めたのが練習量だった。 スコッチウィスキーが好きだった衣笠は、宮崎・日南キャンプでは、毎晩のように古ぼけたスナックに寄り、一滴も飲まない江夏豊と、高橋慶彦を呼んで野球談義を重ねた。私も、時々、その輪の中に入れてもらったが、ちょくちょく衣笠が席を外す。野球談義で思いついたことがあると、バットを振りにいっていたのだ。誰にも邪魔されず集中できるからと、お湯が抜かれた真夜中の風呂場でも、よくバットを振った。 「野球をやりたいのか、やめるのか」。常に自分自身に問い続けた強靭な精神と、常に前を向く向上心、そして、練習量に支えられた肉体。2215試合の不滅の連続試合出場記録と、カープの黄金期を支えた「鉄人」は努力の2文字の上に成立していた。 ちなみに前述した1979年は、骨折後も、福永富雄トレーナーのサポートなどを受けて連続試合出場を続けて20本塁打、打率.278の成績を残してカープの2度目のリーグ優勝に貢献。「江夏の21球」で有名となった日本シリーズも制している。