「反戦平和」を訴え続けた画家・詩人 四國五郎の「記憶を継承」する パギやんの一人芝居全国巡業中
四國五郎さんは幼いころからとても絵がうまくて「神童」と呼ばれていましたが、3歳下の弟・直登さんも絵がとても上手だったそうです。五郎さんたち兄3人が軍隊に召集された後、直登さんが家に残っていて、母親と当時10歳だった末の弟と暮らしていました。直登さんは橋などの警備を命じられて、働いていました。 そして8月6日、徹夜の警備を終えて宿舎で寝ていた時に被爆し、足に大けがを負いました。何とか翌7日の夕方、広島市内の自宅にたどりつきましたが、8月27日夜半に息を引き取りました。18歳でした。 18歳の弟が亡くなったということが、戦後シベリア抑留から帰ってきた四國五郎さんにすごく大きなショックを与えました。直登さんは大けがをして苦しい中でも、日記を書いていました。それを、パギやんが読み上げました。 直登の日記: 八月二十五日 土 曇風強し ゆうべは下痢のため六回も大便をする。母が夜半に遠く井戸水をくみに行かれ寝ないで頭や足を冷やしてくださる。世界で一ばんよいひと。 八月二十七日 月 雨ふったり止んだり 今日は腹具合が少しよいが、足が激痛。朝食はおも湯、昼も同じ。足が痛い。(注:学校に)ゆくのを中止―― 五郎の独白: 弟よ おまえの日記はここで切れる。ぷつんと。目を閉じて書いたように文字は大きくゆがみ、ゆくのを中止――と書いて切れる。お前の人生も断ち切られる。断ち切られて、終わる。 ■シベリア抑留後に知った弟の被爆死 直登さんは、日記をずっと残していて、亡くなった日の8月27日は、ぷつんと切れて、亡くなってしまいます。シベリア抑留から戻ってきた五郎さんは、被爆原爆投下から3年以上経ってやっと帰国できましたが、大きなショックを受けて、ある決意を固めていきます。 五郎の独白: 弟よ。君の命日が来る。少年と呼んでいいか青年と言って良いか。十八歳で人生を終わった君の命日が来る。弟よ。人間の死には様々ある。君の頬の上に滴るのが、おふくろの涙だと知って死ねたことせめて幸せと思ってくれ。 五郎の独白: わたしの手の上にずっしりと持ち重なりする日記帳がある。ひどく右さがりのおせじにも上手とは言えぬ文字で、十三歳のときから十八歳で死ぬるその日まで、十冊あまりの大学ノートにぎっしりと書きのこしたおまえの日記帳だ。 五郎の独白: それは、人間の死ではない。みちあふれた十八歳の生命力をひき裂いて奪い去る死だ。その死によって中断されてしまったこの日記帳だ。よろこびや悲しみや、恋や、やがて愛する妻や子や、ながい人生が記録されるはずの余白を、あまりにも多くの余白を残したまま断ち切られてしまったお前の日記帳だ。 五郎の独白: 一九四八年十一月九日深夜。シベリアから広島に復員して帰ったとき、私はお前が被爆して死んだことを初めて知った。おふくろはお前の日記を前にしてそのことを語り、泣いた。私はその日を前の日記を読みふけり、夜明けを迎えて、帰国第一日の日記の最後にこう書きしるした。「五郎よ!直登の死に対する悲しみを怒りと憎しみに転化させよ!これからの人生で方向を失いかけたときは、これを読み返せ、五郎よ!直登の日記を読め!」と。