「水俣物語」過去と現在を対比した写真集…お下げ髪たたえていた女性の頭には転倒に備えるヘッドギア
大阪府熊取町の写真家、小柴一良さん(76)の写真集「水俣物語」(弦書房)が発刊された。「ミナマタを伝えたい」。水俣病の患者・被害者の日常を1970年代と2000年代以降という「過去と現在」で対比させたモノクロ写真の数々は、半世紀を超える時の経過とともに、今も解決が見通せない水俣病問題を静かに告発する。(白石一弘) 【写真】水俣病の被害者らを15年にわたって撮影したドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅 」の一場面
撮影時期が二期に分かれているのは、一度水俣から離れたためだ。
報道写真家を志して、大阪の写真事務所に就職。土門拳(1909~90年)の撮影助手を務めた後、水俣行きを決めた。「写真を志す者は『ベトナム』『ミナマタ』がテーマの世代」。事務所を辞め、カメラとリュックを持ち、「1度目の水俣」へと向かった。1974年、26歳の時だった。
現地では、写真集「MINAMATA」(75年)で水俣病の実相を世界に伝えたユージン・スミス(1918~78年)ら先駆者の薫陶を受けた。自身の同世代も多い患者・被害者と接し、水俣病の理不尽を告発しようという信念でカメラを向けた。しかし約6年間水俣で生活しながら、写真集は一度も発表しなかった。
当時は、患者が原因企業チッソに勝訴して補償協定が結ばれ、激しい闘争は収まっていた。「『もう、そっとしておいて』という声もあり、水俣病を告発する写真は撮れなかった」。79年に故郷の大阪に戻ってからは、企業のコマーシャルや自治体の広報を撮るなどの仕事を続けていた。
転機は2006年。自分より早くから水俣と向き合ってきた写真家、桑原史成さん(88)(東京都)から、水俣がテーマの写真展への参加を求められた。
初めは固辞したが「告発型ではない自分の写真は貴重な記録かもしれない」と思い直し出展した。翌年、28年ぶりに水俣へ。旧知の患者らに再会し、加齢で急激に体調が悪化する姿を目にして「今こそ水俣を記録したい」と思い定めた。それから毎年数回、1週間から10日間ほど滞在。「大上段に構えず、市井の人たちの過去と現在をつなぎ合わせる撮影」を心がけている。