老中・堀田正睦の外交とは?通商条約の違勅調印、罷免と一橋派の敗北…外政内政ともに翻弄された激動の生涯
(町田 明広:歴史学者) ■ 堀田の帰府と井伊の大老就任 安政5年(1858)4月20日、老中堀田正睦は通商条約の勅許獲得を果たせず、失意のまま京都を発って江戸に到着した。そのわずか2日後の22日、堀田は13代将軍徳川家定に対し、越前藩主松平春嶽を大老に推挙した。しかし、堀田の意に反し、23日に井伊直弼が大老に就任したのだ。 【写真】日米修好通商条約 外務省外交史料館蔵 井伊の就任は、家定本人の意志であることは間違いなく、さらに、老中松平忠固(上田藩主)の大奥工作も噂されており、いずれにしろ、堀田帰府前から画策・内定の可能性が高い。岩瀬忠震ら海防掛は、井伊就任に反対して老中を詰問しており、鵜殿長鋭に至ると、具体的に春嶽起用を主張した。 5月1日、家定は慶福(家茂)を継嗣とすることを大老・老中に達したが、あわせて、厳秘することを命じた。5月2日・6月19日、井伊に意見を求められた春嶽は、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも、当然のことながら不発に終わった。井伊はあくまでも、一橋派の動向を探るため、しらばっくれて春嶽に意見を求めたのだ。 5月13日、宇和島藩主伊達宗城は堀田・井伊に対し、春嶽を京都に派遣して通商条約に関する勅問に奏答することを勧説した。これは、春嶽の上京によって、一橋慶喜を将軍継嗣とする内命を得る逆転に向けた工作であった。堀田は同意も、井伊は不同意であり、5月22日に再度宗城から提案がなされたが、ここでも井伊は当然のことながら、不同意であった。
■ 通商条約の違勅調印 安政5年5月15日、形勢不利と見た松平春嶽は堀田と会見し、さらに井伊直弼も松平忠固も論破して、建儲(将軍継嗣)の大策を定めるよう熱弁をふるった。同日、堀田は井伊に対し、継嗣も通商条約も違勅ではただではすまないと強弁するも不発に終わった。 なお、5月6日、大目付土岐頼旨が大番頭、勘定奉行川路聖謨が西丸留守居に、5月20日、目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に左遷された。いよいよ、井伊によって一橋派の弾圧が開始されたのだ。安政の大獄の萌芽とも言える人事であった。 6月1日、幕府は御三家以下溜詰諸侯に将軍継嗣(具体名なし)の決定を告げ、翌2日には朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りを固めた。ちなみに、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、堀田はあえて井伊に告げず、一橋派のための時間稼ぎを行った。 6月19日、通商条約の違勅調印が行われた。一橋派は、対外情勢から調印はやむを得ないとの意見で一致していた。一方で、違勅調印を政治的に利用することを考え、これを強行したことを弁明するため、京都に使者(春嶽)を派遣することを主張した。春嶽派遣を実現し、ここでも、その際に朝廷から慶喜継嗣との内勅を得る策略であったのだ。 さらには、井伊に違勅調印の責任を取らせて幕府中枢から追い落とし、春嶽を擁立して形勢の逆転を企図した。なお、春嶽派遣が難しい場合は、忠固を派遣し井伊との分断を実現するとの腹案を持った。事態はいよいよ、風雲急を告げる最終局面に突入する。