長﨑美柚らを輩出 神奈川の名門卓球場・岸田クラブ コロナ禍で創設者の父を亡くした次女と仲間の奮闘物語
本当だった「縄跳び1,000回してから練習」
――岸田クラブは、縄跳び1,000回してから練習するって聞いたんですけど、本当ですか。 三木朋子:若干、本当です(笑)。最近は徹底していないのでやってない子も多くて、また復活させたいと思ってるんですけど(笑)。 小学5,6年生だと、前跳び・後跳び500回ずつ、あと二重跳び500回やりなさい、と言ってます。幼稚園くらいからやってると、みんなできるようになりますね。 コーチの村守さんたちが長﨑たちにさせたのが最初です。縄跳びは、狭いところでも、天候関係なくひとりでもできますし、試合会場で待ってる間にやるのも良いです。 ――正直、そんなに広くない卓球場で、時間も限られていますが、コーチ、保護者の方々ら子どもたちを教えることへの大人の熱意を強く感じました。 三木朋子:そうですね。本当にありがたくて。正直コーチだけでは成り立たなくて。 保護者の皆さんが自分の子だけでなくて、クラブの他の子も強くしようとしてくれるので、その手厚いサポートのおかげです。 村守さんや町さんはじめ、父の代からずっとみなさんに支えていただいていて。
コロナ禍で亡くなった父・岸田晃について
――岸田クラブ創設者で、お父さんである晃さんが亡くなったのは何年前ですか。 三木朋子:3年前ですね。コロナでした。 いま5年生のうちの娘が小学校2年生で初めて全日本ホカバに参加して神戸から帰ってきた翌日、父が発熱して。 大丈夫だよって本人は言ってたんですけど、同じ家に住んでいたので、私たち一家もみんな罹ってしまって。家の中でもLINEでやり取りするような感じだったんですけど。 1週間くらいで入院、発症して1ヶ月経たないくらいで亡くなりました。73歳でした。 卓球場にも罹った子がいて、中3の県大会に繋がる大会にも出られなくしてしまった子が何人もいたので、父もそうなんですけど、クラブとしてかわいそうなことをしてしまったなと思っています。 ――つらい時期でしたね。 三木朋子:それまでの父はずっと元気で、釣りが大好きで、毎週月曜は岸田先生は練習休みで釣ってきた魚をみんなに配る、というのが日課でした(笑)。 釣りとスーパーと卓球場くらいしか行動範囲がなかった人がコロナに罹って、ずっと仲良くしていただいた方たちにもお会いできず、申し訳なかったなと。 ――娘の朋子さんから見て、お父さんはどんな人でしたか。 三木朋子:教育者だったと思います。 卓球場の壁に「感謝」とあるように、何事にも感謝しようと。卓球は相手がいないと成立しない、ここでやれることは当たり前じゃないんだよ、常に相手にも仲間にも家族にも感謝しようという父の考えは、大事にしています。