日本よりも悲惨な中国の「超超超超氷河期」…「就職したくてもできない」「就職しても理不尽な扱いを受け疲弊」中国の若者たちの悲哀
中国は、「ふしぎな国」である。 いまほど、中国が読みにくい時代はなく、かつ、今後ますます「ふしぎな国」になっていくであろう中国。 【写真】中国で「おっかない時代」の幕が上がった!? そんな中、『ふしぎな中国』の中の新語.流行語.隠語は、中国社会の本質を掴む貴重な「生情報」であり、中国を知る必読書だ。 ※本記事は2022年10月に刊行された近藤大介『ふしぎな中国』から抜粋・編集したものです。
45度人生(スーシウー ドゥ レン シェン)
かつて儒教の始祖・孔子(紀元前551年~紀元前479年)は説いた。 「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(中庸之為徳也、其至矣乎) 『論語・雍也』の一節だが、この「中庸」という言葉は、古代の中国人の心にズシリと響いたようだ。そのため、礼に関する記述をまとめた『礼記』の第31篇に、「中庸」の項が入った。一説には、孔子の孫の子思(紀元前483年頃~紀元前402年頃)が、その作業を行ったという。 さらに、儒教文化が花開いた宋代(960年~1279年)になると、「中庸」は『礼記』からも独立した。江戸時代の日本に多大な影響を与えた朱子学の祖・朱熹(1130年~1200年)は、それまでの『論語』『孟子』に『大学』と『中庸』を合わせて「四書」としたのだ。「中庸」は、「科挙」(当時の国家公務員試験)の試験科目にもなった。 明治時代の日本でも、1887年(明治20年)に創刊された総合月刊誌に、紆余曲折を経て『中央公論』の名前がついた。これも「中庸」を意識した誌名ではなかろうか。 『広辞苑』では、「中庸」をこう説明している。 「かたよらず常にかわらないこと。不偏不倚で過不及のないこと。中正の道」 このように日中問わず、古代から現代に至るまで、「中庸の道」は、あまねく尊ばれてきたのである。 それで、再び現代中国の若者論である。彼らの置かれた状態を表す流行語に、「躺(タン)平(ピン)」があることは、前項で解説した通りだ。 高校や大学を出ても就職できず、もしくは就職する気がなく、居心地のいい自宅でゴロゴロと、スマホ片手に寝そべって生活している若者たちを指す。日本では「寝そべり族」という名訳が定着している。 実は、「躺平」には対義語が存在する。それは、「内巻(ネイジュエン)」。この言葉も中国では、「躺平」と同等程度に昨今、頻繁に俎上にのぼる流行語だ。 「内巻」という言葉を聞いて、日本人の私が思い浮かべるのは、淡路島と四国の間に横たわる鳴門海峡で巻き起こる渦潮である。あの渦潮のような激烈な中国社会の波に揉まれている若者たちの状態を指す語が、「内巻」だ。 日本では、残念ながらまだ名訳が生まれていない。中国語では、「努力のインフレ」(努力的通貨膨張/ヌーリーダトンフオペンジャン)と言い換えている記述を見た。これには思わず、「座布団一枚あげてくれ」と言いたくなった。 前の項でも述べたが、昨今の中国の就職戦線は「超超超超買い手市場(氷河期)」である。 そうなると、どの職場にも、ものすごい「渦潮」ができる。つまり、些細なミスを犯しただけで、「明日から来なくてよい!」と上司に言われかねない。もしくは周囲に、そう言われた同僚を見ている。日本の「温室的会社社会」と異なり、中国の職場ではパワハラが問題視されることなど、ほとんどない。 そのため若者たちは、日々懸命に努力しても、まるでインフレのようにさらなる努力を要求される。結果、職場の緊張感とストレスたるや、半端ないのである。そのような状態が「内巻」だ。 私は、「あくせく族」と訳してみた。 常にあくせく働くことを迫られている若者たち―「躺平」の「寝そべり族」ほど名訳でないことは承知しているが、何となく雰囲気は理解してもらえるのではなかろうか。 ともあれ、「躺平」と「内巻」は、対極をなす状態である。言うなら「躺平」は「水平」で、「内巻」は「直立」である。直立というのは、業績アップや出世といった「上」を目指してあくせくしているイメージだ。 こうした中、2022年春から夏にかけて、中国の若者たちの間で、新たな「動き」が起こった。「私たちは『躺平』でもなく、『内巻』でもない『中庸の道』に行かされている」―そんな声が、ネットやSNS上で囁かれ始めたのだ。 そこから、「45度人生」という新たな流行語が生まれた。傾きが、「0度」でも「90度」でもなく、中庸の「45度」というわけだ。 「45度人生」は、「上不去(シャンブチュイ)、下不来(シアブライ)、巻不動(ジュエンブドン)、躺(タン)不平(ブピン)」という漢字12文字で説明される。「上がろうにも進めず、下ろうにも落ちて来ない。あくせくしても動かず、寝そべっても平たくなれない」 「中庸の道」と言えば聞こえはいいが、誠に居心地の悪い中途半端な状態なのである。望んでその道を歩んでいるのではなくて、あくまで受動的にそうした状態に置かれているというところがポイントだ。 「45度人生」という流行語には、若者たちの悲哀がこもっている。「自分たちの人生って、結局こんなものかよ」という、半ば投げやりな気持ちが含まれているのだ。 つまり、自分はまともに就職したいのだが、なかなか就職先が見つからない。見つかっても、前述のようにひどく理不尽な扱いを受け、疲弊して辞めてしまう。それで自宅で過ごしているが、この状態は決して本意ではない……。 私の中国人の友人で、大手中国IT企業の幹部がいる。夫人も大手国有商業銀行の幹部だ。彼らには一人息子がいて、数年前に大学を卒業したのだが、友人と微信で通話するたびに、息子のことをグチる。 「また愚息が会社を辞めてしまった。家でぐうたら『躺平』をやっているんだ」 彼の息子は大学卒業後、父親のコネを使って、将来が有望視される新興のIT企業に就職した。だが半年も経たずに、心身共に疲弊して退職してしまう。 しばらく「躺平」した後、大学時代の先輩が立ち上げたスタートアップ企業を手伝うが、ほどなく先輩の方針について行けず退職。再び「躺平」を経て、大手学習塾チェーンに就職した。だが、2021年7月に習近平政権が打ち出した「学習塾禁止令」によって、会社が倒産してしまった。 三たび「躺平」を経て、地元の不動産会社に就職。ところが2021年12月には、中国不動産業界ナンバー2の恒大グループが、部分的な債務不履行に追い込まれるなど、未曽有の不動産不況が襲った。 それで息子の給料も減り続け、四たび退職。そして四たびの「躺平」の後、近くのコンビニでバイトを始めるが、また長続きせずに辞めてしまった……。 私は友人に、「息子にどんなアドバイスをしているのか?」と聞いてみた。すると、こう答えた。 「私の座右の銘は、『滴水穿石(ディシュイチュアンシー)』(雨垂れ石を穿つ=水滴がいつかは石に穴を開けるように、小さな努力の積み重ねが、やがては大業を成し遂げる)だ。また、私が誰より尊敬する鄧小平同志は、三度も失脚したが、不屈の精神で三度とも復活を果たした。 こうした話を、愚息に説いて聞かせるのだが、まるで馬耳東風。『それが何? 僕の人生と関係ない』と反抗してくる」 私は友人と同世代なので、「滴水穿石」や鄧小平氏の逸話は理解できる。一方、いまの中国社会の大変な状況下で、息子の立場も理解できる。そのため、思わず言葉に詰まってしまう。 先日、この友人と再び話した。今度は、思わぬ不吉な言葉を口にした。 「愚息は相変わらずだが、折からのIT不況の波を受けて、私が勤める会社も業績がガタ落ちだ。私も次の董事会(取締役会)でクビになりそうだ。銀行もリストラの嵐で、家内も退職寸前だ。 まもなくわが家は、一家3人で『45度人生』となるかもしれない……」
近藤 大介(『現代ビジネス』編集次長)