79年目の長崎原爆の日。爆心地・浦上は江戸時代、異教徒が共生していた村だった。その子孫が敵対と分断が進む世界や、イスラエルに関して思うこととは…
森内さんは、約250年間も教えを守ることができたのは、戦闘集団だったキリシタンの元武士たちが、同じ信仰を持つ農民の中に入り込み、統率の取れた強固なネットワークを構築したからではないかと考えている。 農民として暮らしながら秘かに忍術を伝えてきた伊賀や甲賀の村のようなイメージが浮かぶ。 森内さんの案内で、浦上キリシタンの指導者である「帳方」の屋敷跡に立つと、江戸時代には絵踏みが行われていた庄屋屋敷跡に立つ、浦上天主堂がすぐ近くに見えた。 「潜伏の拠点」だったはずの帳方屋敷跡は、権力者側とされる庄屋の屋敷からすぐ見える場所で、見晴らしのいい丘の上の一等地にあった。森内さんは、帳方が、浦上の要所要所に元武士たちを配置し、教えを後世に伝えていったと考えている。 ▽原爆で亡くなった庄屋の子孫が永井博士に話したこと 権力者側とされる庄屋についても考察したい。 浦上で代々、庄屋を務めた高谷家は、元々「菊地」姓の武士だった。豊後(大分県)のキリシタン大名・大友家に仕えていた菊地氏は、大友家の領地が豊臣秀吉により没収されたため、自身の家臣団を連れて、かつてイエズス会に寄進されキリシタンの土地だった浦上に亡命してきたと考えられている。
原爆で被爆しながらも救護に当たった医師の永井隆博士は、2人の子どもへの遺訓とした著書で、高谷家に関して興味深い記述を残した。博士は、役人や隣人が迫害者側に立ったという文献から離れる必要があると指摘。長崎という土地の人情を考えると「役人や市民は、キリシタンをかばう気持ちが強かったと認めたい」と記した。 博士は、高谷家の子孫で原爆で亡くなった兄弟から直接聞いた浦上の平和を維持するための庄屋の苦労話や、生前の兄弟の人柄を紹介した上で「先祖代々、きっと善い人であったであろう」「迫害者の柄ではない」と書き残した。 博士の妻は、 キリシタン指導者「帳方」の子孫に当たり、博士の病室兼書斎があった場所こそが、帳方の屋敷跡だ。 江戸時代初期の苛烈な弾圧後、キリシタンと非キリシタンは共生していたことが、近年の日本史研究でようやく分かってきた。 実際に現場を歩いてみると、「潜伏」という地下に隠れるような暗い言葉のイメージとは異なり、村全体が組織化され結束していたという印象が残った。キリシタンを厳しく取り締まっていたはずの長崎奉行所も、浦上村の近くにあった。体制側の役人も、仏教徒の村民も、隣人が幕府の解釈では違法な存在であるキリシタンだと分かっていながら、共生していたのだと感じた。