79年目の長崎原爆の日。爆心地・浦上は江戸時代、異教徒が共生していた村だった。その子孫が敵対と分断が進む世界や、イスラエルに関して思うこととは…
実は、それ以前にも禁教令を破っていると疑われた事件はあった。だが、長崎奉行所は「警戒すべき宗教活動だが、キリシタンではない」と穏便に事件を処理していた。 村社会の秩序維持のため、キリシタンが信仰を表明しない限り黙認し、共生していたと考えられている。 早稲田大教育・総合科学学術院の大橋幸泰教授(近世宗教史)によると、当時は宗教の掛け持ちが当たり前だった。キリシタンも村民としての意識が強く、寺や神社の活動にも参加していた。 村社会が結束していた宗教混在の共存関係が崩れたのは、開国が迫っていた幕末の頃からだ。江戸幕府を倒した明治政府は近代化を進め、国家神道を第一とする天皇中心の秩序による新国家建設を推進した。 神仏分離政策や廃仏毀釈に見て取れる一神教的な価値観が広がった時代背景下、キリストを唯一の神とあがめる人たちへの大弾圧が行われた。 ▽人類史に刻まれた地獄の猛火 キリスト教徒が各地に流刑となり、厳しい拷問で6百人以上の犠牲者を出した浦上四番崩れの後。
「受難の旅」から帰郷した信徒たちはようやく信教の自由を得て、かつて絵踏みを行っていた、小高い丘の上の庄屋屋敷跡に、30年もかけて浦上天主堂を完成させた。 だが人類史に刻まれる惨禍はこれからだった。宗教も職業も年齢も民族も関係なく、全てを焼き尽くし吹き飛ばした無差別大量虐殺が行われた。 1945年8月9日。米国は広島に続き、浦上の上空で原爆をさく裂させた。初のプルトニウム型原爆の投下だった。浦上ではカトリック教徒約1万2千人のうち、約8千5百人が犠牲になった。浦上天主堂も倒壊した。 長崎への原爆投下で、45年末までに死者は約7万4千人、重軽傷者は約7万5千人に上ったと推計されている。79年後の今になっても死者数さえも確定できていない。一人一人の人間の命や尊厳など一顧だにされない地獄の惨禍が、本当に起きてしまった。 数々の迫害や絶対に許されない虐殺。それを無抵抗で耐え忍び、再び生きようと祈り続けているのが爆心地・浦上を中心とした長崎の歴史だと言える。