「りゝしさは四つに組んだる角力哉」 正岡子規と大相撲の横綱同時昇進
この句を詠んだ俳人、正岡子規の著書に「病牀(びょうしょう)六尺」がある。明治35年5月5日から34歳の若さで世を去る2日前の9月17日まで127回にわたり、新聞「日本」に連載された随筆集だ。その6月17日にはライバル関係にある武将と力士の比較が記されている。
「信玄と謙信とどつちが好きかと問ふと、謙信が好きぢやといふ人が十の八、九である。梅ケ谷と常陸山とどつちが好きかと問ふと、常陸山が好きぢやといふ人が十の八、九である」と書き出す。
「その好き嫌ひについては、多少の原因がないではないが、多くはただ理窟もなしに、好きぢやといふに過ぎぬ。しかし一般の人は自重的の人よりも、快活的の人を好むといふことが、知らず知らず、その好悪の大原因をなして居るかも知れぬ。余は回向院の角力も観たことがないので、贔屓(ひいき)角力などはないがどつちかといふと梅ケ谷の方を贔屓に思ふて居る。さうして子供の時から謙信よりも信玄が好きなやうに思ふ。それはどういふ訳だか自分にも分らぬ」と結ぶ。
子規は両力士の横綱同時昇進を知らぬまま、この文章を残したことになるが、全盛期を迎えつつあった常陸山よりも梅ケ谷を贔屓にしたことが興味深い。相撲に造詣が深くなくても常陸山、梅ケ谷は耳目を集めるような練達だったことがよくわかる。そんな力士こそ、同時昇進にふさわしいと教えてくれているように思えてくる。(奥村展也)