死の隣で自分を見つめる…僧侶で登山家の38歳がヒマラヤの未踏峰2座を制し感じた"人間の儚さ"
■日本最北端の島に登山家兼僧侶がいる 有人島では日本最北端に位置する礼文島に、登山家を兼ねる異色の僧侶がいる。日蓮宗妙慶寺で副住職を務める齊藤大乗さん(38)は、登山家としても活躍し、これまでヒマラヤの未踏峰2座を制覇した。人口減少にもあえぐ離島の再生への挑戦も続ける。 【写真】有人島では日本最北端に位置する礼文島にて、日蓮宗妙慶寺で副住職を務める齊藤大乗さん 稚内から船で2時間あまり。礼文島はサハリンにも近く、ロシアと接する「国境離島」である。時折、轟音を上げてスクランブル発進した自衛隊機が、上空を横切る。 北緯45度の高緯度にある立地のため、海抜0メートルでも高山植物が見られる「花の島」として知られる。6月~9月の夏期には、レブンアツモリソウやレブンウスユキソウなどの固有種が咲き乱れ、多くの観光客を集める。 一方で、冬期は風と荒波で閉ざされた世界になる。そのため、夏場は島で観光業などに従事し、冬は札幌や東京などに出稼ぎに出る島民も少なくない。筆者が訪れた10月末、多くの宿泊施設は早くも閉鎖され、島はひっそりと静まり返っていた。 礼文島は主に2つの集落(香深、船泊)があり、人口わずか2200人ほど。しかし、その小さな島に8つもの寺院が存在する。その中の一つ、船泊集落にある妙慶寺を訪ねた。 「私は秋に入れば礼文島を離れて、国内外の山にいることが多いので(取材の)タイミングが良かったです。もっとも、ここ数年は厳冬期には隣の利尻島でバックカントリー(整備されていない雪山をスキーやスノーボードなどで滑るスポーツ)のガイドをやっていますがね」 齊藤大乗氏は澄んだ目、人懐っこい笑顔が印象的だ。頭は僧侶らしく短く刈り込んでいるが、あまり「僧侶らしさ」が感じられない。
■インドのスラム、福島第一原発…「死」の隣で去来したこと 齊藤さんの人生は、波乱万丈だ。「幼いころから寺での生活には、抵抗はなかった」と語るが、僧侶としての道を確立するまでの彼の歩みは、決して平坦ではなかった。 最初の転機は、日蓮宗僧侶になるための第一歩を踏み出す道場「僧道林」に入る直前に、幼馴染の親友が自死したこと。僧侶として友を救えなかった無力さを恥じ、本格的に修行道場に入るのをやめた。人生の目的も失いかけ、精神的にも荒んだ日々を送っていたという。 「そんな私を見かねた父が、『インドにでも行ってこい』と言ってきたんです。そこで1年ほどインドを放浪することに。スラムを回り、ストリートチルドレンらと交流し、貧困の中でも逞しく生きる人々を目の当たりにしました。このインドでの強烈な経験が私の目を覚まさせました。それでお寺を継ぐというレールからいったん外れ、真逆のことがしたくなったんです。私が選んだのは、自衛隊に入隊することでした」 齊藤さんは陸上自衛隊の千葉・木更津駐屯地に配属。第1ヘリコプター団の通信手の任に就いていた2011年3月11日、東日本大震災が起きた。翌12日には福島に派遣される。現場は福島第一原子力発電所だった。全電源喪失とメルトダウン、そして原子炉建屋が爆発。現場は修羅場と化したが、「私は偉い上官の側で補佐をするだけの役割でした。自衛官として現場で汗を流すこともなく、何もできなかったことが、悔しかった」と振り返る。 齊藤さんは2014年に退官するが、現在も予備役として所属を続けている。 「自衛隊を辞めた直後は、漠然とした不安感がありました。このまま礼文島に帰ったら、誰にも僕という存在が知られないまま消えていくんだ、と。自分が生きているってことを、誰かに知られてなければ、生きていることにはならない。このままだったら死んだも同然だ、と考え、本格的に山登りを始めました」 山登りのきっかけをくれたのは木更津駐屯地にいた時、隣部屋の先輩自衛官だった。誘われるがままに八ヶ岳を登り切り、山の世界にあっという間に引き込まれた。八ヶ岳登山の翌週には難易度の高い甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根ルートに挑んだ。 さらに谷川岳、赤岳、穂高岳、剱岳など、国内の3000メートル級の山々で鍛錬を続けた。齊藤さんはNHKの紀行番組『にっぽん百名山』などでカメラ機材の荷上げなどにも関わりながら、山の仕事にどっぷりと浸かっていった。