“生え抜きスター”に厳しい現実も…“長期政権”を期待されるも短命に終わった監督列伝
2016年、現役続行を望みながら、現役選手に監督を要請する球団側の「相当な覚悟」に対し、「僕自身もやろうという気持ちはあった」と最終的に決断。40歳で名門球団の新監督に就任したが、ここから苦闘の日々が始まる。 12年から3年連続リーグVをはたしたチームも、内海哲也、杉内俊哉ら主力投手の力が衰え、長年正捕手を務めてきた阿部慎之助が一塁にコンバートされるなど、世代交代の波が迫っていた。指導者経験のない新監督が“常勝”を義務づけられるのは、明らかに重荷だった。 1年目は優勝した広島に17.5ゲーム差の2位に終わり、CSもファーストステージで敗退。FAで陽岱綱、山口俊、森福允彦を獲得、マギーらの大型補強で巻き返しを狙った翌17年も、5月25日から6月8日にかけて球団ワーストの13連敗を記録したことが大きく響き、12年ぶりのBクラス・4位に沈んだ。 そして、3年契約最終年の18年、シーズン前には親会社・読売新聞グループ本社・代表取締役主筆の渡辺恒雄氏も「高橋君はまだ若い。たった2年しかやっていない。今年から勝ちはじめて優勝10回ぐらいやって、長嶋さんの記録(優勝5回)を塗り替えてくれると期待している」と長期政権を見据えて激励した。 だが、同年は高卒4年目の岡本和真が4番に定着したものの、5月以降1度も優勝争いに絡むことなく3位に留まると、シーズン中の10月3日、高橋監督は「監督はすべての結果と責任を背負うもの」と3年連続V逸の責任を取る形で、球団側の慰留を固辞して辞任を表明。翌19年から3度目の指揮をとった原辰徳監督がリーグ2連覇を達成したことを考えると、監督になった時期のめぐり合わせが悪かったとも言えそうだ。 ファンに夢を与える兼任監督として就任したのに、たった2年で終わりを告げたのが、06年に就任したヤクルト・古田敦也監督だ。 捕手として長年チームの司令塔を務め、91年に首位打者、通算2097安打、217本塁打を記録した“ミスタースワローズ”は、恩師・野村克也監督の南海時代以来、29年ぶりの選手兼監督になった。