文書改ざんは「民主主義の危機」それは何故?坂東太郎のよく分かる時事用語
森友学園問題をめぐって噴出した財務省による決裁文書改ざん問題で「日本の民主主義の危機だ」という懸念も出ています。そこで、日本の政治制度、議会制度の基本をおさらいした上で「改ざんされた公文書が国会に提出されていた」という点のみを掘り下げてみたいと思います。 【写真】財務省文書改ざん問題で注目、国会の国政調査権とは?
権力の濫用や暴走をチェック
日本国憲法は三権分立(司法・立法・行政)を採用しています。条文をみると、 ・第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である(立法) ・第65条 行政権は、内閣に属する(行政) ・第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(司法) このうち、比較的わかりやすいのは「立法」と「司法」。「立法」は法律をつくる(修正したり廃止したりも含む)機能で、国会(衆議院と参議院)だけが持ちます。「司法」は裁判所。 ややこしいのが「行政」で、国会での決まりごとを執行する機関です。おおよそ国民への公的サービスを担います。「国の仕事」から立法と司法を引いた残りすべてが該当すると考えてよさそうです。内閣総理大臣(首相)をリーダーとする内閣(首相と国務大臣)を筆頭に、政策立案を行うプロの国家公務員が集まる府省庁(財務省もその1つ)が連なっています。 「分立」とは国家権力を上記のように三つに分けて互いにチェックさせ、濫用や暴走が起きないようにするという意図に基づきます。 説いたのはフランスの思想家モンテスキューです。著書の『法の精神』(1748)によると、権力を持つ者は必ずむやみやたらと極限まで使いたがるのは過去の歴史から明らかだと示し、個人が政治的な自由を保つには権力の分立が必要だと指摘しました。彼がイメージしていたフランスの「絶対君主制」は、国王の権力は神(完全)から与えられた侵されざるものとする王権神授説を理念としていました。 対抗する思想として、今や普遍的価値観となった「民主主義」は、国民主権を原則とする政治システムとほぼ同じ。神(完全)ならぬ人間(不完全)の統治だから必ず誤る。だから分立させて、国民の自由や権利がないがしろにされないようにチェックしなければ、緊張感を失うのです。 また民主主義は支配する者とされる者が同一となります。今の日本は約1億2600万人の国民すべてがあらゆる政治課題を常に話し合うのが不可能なので、選挙などで代表者を選んで国会で働かせる「間接民主制=議会制民主制」です。日本が採っているのはその一形態である「議院内閣制」。三権を厳格に分けるのではなく立法府(国会)を「国権の最高機関」と最上位へ位置づけるも、行政府トップの内閣総理大臣(首相)は国会が国会議員から選び、首相は内閣を構成する国務大臣の少なくとも過半数を国会議員から任命します。「こういう法律がつくりたい」と内閣(行政府)が立法府に提案するのも可能です。その意味で立法府と行政府が相互乗り入れした融合形態ともいえましょう。 決裁文書の改ざんが「民主主義の危機だ」と指摘されるのは、この三権分立を犯しかねないからです。財務省は行政機関で常に立法府から監視(チェック)されています。そこがつくって立法府に提出した公文書が本物とは違うとなると、立法府は偽りの情報で善し悪しを判断したことになり、行政府を当然正しくチェックできません。仮に改ざんが許されるとなれば、行政府は意のままに立法府をたぶらかすことも可能となります。