文書改ざんは「民主主義の危機」それは何故?坂東太郎のよく分かる時事用語
公文書は誰のもの?
主権者である国民が「私に代わって政治を担え」と送り出した議員で構成される国会(立法府)が、森友学園問題の改ざんでは結局、約1年にわたって原本ではなく書き換えられた文書を「本物だ」という前提で議論してきました。単に時間の空費に止まらず、間接的に国民を欺き愚弄したと批判されても仕方ありません。 そもそも官僚機構では「文書主義」が徹底されています。文書主義とは「行政事務の遂行に当たっては、記録として文章を作成する」(内閣府WEBサイトより)ことです。2011年には「公文書管理法」も施行され、決裁文書などの公文書を作成し、一定のルールで管理・保存することになりました。公文書は適切な行政運営だったかを検証するための材料としても期待でき、民主主義の根幹です。国会では、行政府から提供された文書が正しいという前提で論議がなされるので、偽物が横行すると国会そのものが無意味化してしまいます。 ただ今回の改ざんが「民主主義の危機」と言われても、肌感覚で受け止めにくい方もいらっしゃいましょう。そこで似たようなケースを2010年に発生した大阪地検特捜部の証拠改ざん事件に求めてみます。 検事が証拠となるフロッピーディスクの日付けを都合よくを書き換えたのです。不幸中の幸いで無罪判決が言い渡されましたが、もし裁判所が疑わなければ、検察(行政機関)が裁判所(司法府)を欺き、有罪になっていたかもしれません。捜査当局が自由に証拠をでっち上げることが許されたら、無実の者もどんどん有罪。それを見過ごした裁判所も合わせて、国民の信頼を一挙に失います。この事件は行政府と司法府の関係でしたが、森友学園問題は立法府と行政府の関係。いずれも三権の有り様を揺るがす事態です。 ところで、日本は議院内閣制なので構造として行政府が主役になりがちです。首相の名前は知っていても衆議院議長や参議院議長の名を言えないという一事をとっても分かります。内閣が提出する法案が、国会審議される法案の8割を占め、大半が成立します。立法府の主導権を内閣(行政府トップ)が握っているとも言い換えられましょう。 現在の首相を指名選挙で選んだ国会議員の多くは所属政党を同じくし、首相は第一党の党首も兼ねます。ないしはその党と連立合意した別の党も加わります。現在の安倍首相は国会第一党の自民党総裁(トップ)でもあり「ボスの提案は無下にできない」と国会で賛同するのはむしろ自然です。 つまり行政府がよほど自制しない限り、国会が行政の下請けのようになる一種の“独裁まがい”の政治に堕する危険性を制度上、元々はらんでいるともいえます。府省庁にとって不都合な公文書を隠ぺいするといった不祥事は過去に何度も起きています。公文書を「国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものである」と定めた公文書管理法が2009年に成立して、なお一部官僚の頭に「公文書は自分たちのもの」という過去の残滓(ざんし)が留まっているのかもしれません。