坂口涼太郎、原点を振り返る「朝ドラ4作品出演で、声をかけられるように。仕事がなかった時、おかっぱヘアでオーディションに合格」
◆踊っている姿が喋りたそうで 僕は高校入学のタイミングで神奈川に引っ越すことになったので、モダンミリイに通ったのは、中学2年生からの1年間だけ。それでも、モダンミリイは僕にとって大きな存在でした。スタジオの『戦争わんだー』(07年)という公演が、僕の初舞台になったのです。 未來さんのお母さんからオーディションを受けませんかというお手紙をいただいて。合格し高校2年生の夏休みに一人で神戸に行って、森山家に居候させてもらいながら稽古をして、本番を迎えました。 この時演じた役は、スズメ。公園でスズメの歩くリズムや動きを懸命に観察して模倣しました。それでも、スズメがおじいちゃんに蹴られるシーンが、何度やってもうまくできない。 演出の未來さんが見本を見せてくれた際、ドーンと粉砕骨折したみたいな音がするほど激しく倒れ込んだんです。表現するって大変なんだなって茫然としました。 でも、迎えた本番。お客さんの拍手を受けた瞬間、こんなに幸せなことはない、こういうことを僕はやっていきたいと強く感じました。 この時出演なさっていた八十田勇一さんが、僕の踊っている姿を見て「すごく喋りたそうに見えた」からと、「俳優になれば、ダンスもできるし、セリフも言えるよ」と言ってくださったんです。 オーディションを受けて八十田さんと同じ事務所に入り、18歳の時に俳優になりました。
◆遠回りして気づいた自分らしさ その後、1年くらいはまったく仕事がありませんでした。オーディションを受けてもさっぱり受からない。でも僕は「適当」という言葉が好きなんです。目標や課題がある時には全力で一生懸命やるけれども、オフの時は頑張らず、適当でいることが大事かなと思っているから。それでせめて自分の好きなことをやろうと思って、服飾の専門学校に入りました。 そんな生活が続いたある時、髪形を変えたら、急にオーディションに受かるようになったんです。アルバイト先に、髪が耳にかからないようにと言われて、初めて行く美容室で切ってもらったら、おかっぱにされただけなんですけどね。でも、自分で見ても似合っていた。 思い返すと、オーディションに受からなかった時期は、自分の何がダメなんだろうということばかり考えていました。どんな髪形をして何を着てどう受け答えすれば気に入られるんだろうと。就活みたいですよね。 でも、自分に似合うヘアスタイルを見つけた途端、合格するようになった。だからそれからは、「自分はこういう人間です。役と合っていたら選んでください」という気持ちでオーディションに臨むようになりました。 演じる時には、「僕を好きなように料理してください」とスタッフの皆さんにお任せして。坂口涼太郎というコンテンツの幅を楽しんでもらえたらと、今は思っているんです。 俳優以外のお仕事でも、「どうぞ僕をお楽しみください」という気持ちを大切にしています。テレビや雑誌のきらびやかな感じが好きなので、せっかく人様の前に出るなら、素敵なファッションやメイクにしたい。自分なりの〈美しさ〉を表現して、「僕を見て!」という「どやさ!」の精神でいきたいんです。 (構成=大内弓子、撮影=木村直軌)
坂口涼太郎
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