人生の究極の目的とは、人の心に耳を傾け、世界の鼓動やため息や夢を聞き出すこと
シャガールの「人生の究極の目的」
次に引く言葉はエリアーデの著作に記されているのですが、語っているのは画家のマルク・シャガールです。エリアーデの『象徴と芸術の宗教学』(ダイアン・アポストロス=カッパドナ編)に「マルク・シャガールとの対話」と題する一文があります。 エリアーデは言葉による探究は、井筒俊彦のいう「コトバ」による探究とともにあるとき、その可能性を深めることを深く認識していました。宗教の本質を問い続けた彼が、言語である言葉とは異なる、色彩、線描、そして構図というもう一つの「コトバ」によって描かれた世界に宗教の本質、宗教の使命をすら感じ取ろうとしているのは何ら不思議なことではありません。この対話でシャガールは「人生の究極の目的」をめぐって次のように述べています。 最近、人生の究極の目的について意見を交わしあう人々がいることを知り、うれしく思っています。この地上の私たちの社会において、人の心に注意深く耳を傾け、そこに世界の鼓動やため息や夢を聞き出すことほど、心を動かすことがあり得るでしょうか。(奥山倫明訳) もう二十年ほど前のことですが、この一節を初めて読んだときの衝撃を忘れることができません。当時の私は「世界の鼓動やため息や夢を聞き出すこと」を忘れそうになっていたからです。 世界の深みから発せられる「コトバ」を聞き、それに応答すること、それがシャガールにとっての表現だったのです。エリアーデは、ここにもう一つの可能性、真の意味で「宗教」とふれあう場としての「宗教学」の可能性を感じていました。先の言葉に続けてシャガールは次のように述べています。少し長くなるのですが、現代という時代を生きる上で重要な示唆が述べられているので引用したいと思います。 しかし、時が経つにつれ、こうした古い概念が役立たなくなってきていることが、ますます明らかになってきています。それは人間を活気づけて内なる生命を満たすことはできませんし、創作活動だけでなく、ただ生きるために必要な強さを、人に与えることもできなくなっています。 こう言ったからといって、私は悲観論者ではないので、悲しみに打ちのめされているわけではありません。人間に対する私の信念を、むりやり失わせることができるような力は存在しません。なぜならば、私は自然全体の偉大さを信じているからです。私はまた、人間の意志と行動は多くの場合、この同じ自然と、歴史の歩みと運命の足取りによって動かされている宇宙の力の成果だということも知っています。(同前) 生活することが「いのち」との関係を失うことになるような現代という時代にあって、「世界の鼓動やため息や夢を聞き出すこと」の意味を問う人は少なくなるかもしれない。人間の認識のちからがそうなっていっても「宇宙の力」が減じることはない。シャガールは、現代人の可能性を信じるよりも、より深い「自然全体の偉大さを信じている」というのです。 科学は、人間を言葉の世界に封じ込めることがある。言葉だけで語られた「宗教」からはいつしか、宗教画や聖像という「コトバ」の世界が見失われがちになります。エリアーデはその危険を熟知していました。 語り得ないがしかし、深く経験するのを求めてくる聖なるもののはたらきをエリアーデは忘れない。彼は、同質の問いを絵画の世界で試み、「宇宙の力」の表現者たろうとするシャガールに深い敬意を捧げているのです。 宗教とはシャガールのいう「自然全体の偉大さ」あるいは「宇宙の力」を経験する場ではないか。その経験が組織としての宗教や神学を生むのであって、逆ではないのではないか。エリアーデも敬愛していたルードルフ・オットーが『聖なるもの』で次のような言葉を残しています。 どのようにすれば私たちもキリストのもとで、「現れた聖なるもの」の体験に至ることができるのか。 論証的に、つまり証明により、規則や概念に基づいて到達するのでないことはもちろんである。(華園聰麿訳) オットーとエリアーデまではありありと生きていた宗教をめぐるこうした認識が「論証的」なものになっていったことと、二十世紀、二十一世紀にわたってこの国に起こった宗教をめぐる悲劇は無縁ではない、と私は感じています。 少し長くなりました。私の家の近くではモクレンが満開です。この花は、私にとって「宗教」的なものでもあります。木蓮という名のとおり「蓮」の象徴とつながるものなのです。 (以下次号)
若松 英輔(批評家・随筆家)