人生の究極の目的とは、人の心に耳を傾け、世界の鼓動やため息や夢を聞き出すこと
聖なるもの
さて、「聖なるもの」をめぐって考えようとするとき「境界」に問題が及ぶのはよく理解できます。多くの宗教学はそうした視点から宗教の本質に迫ろうとしました。「境界」の存在を否定するのではありませんが、ここで「聖なるもの」の根源性にもふれておきたいと思います。宗教学者のミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で述べた指摘は重要です。 聖なる空間を祭儀によって建立する必然性をよりよく理解するためには、まず伝統的な〈世界〉の観念について検討しなければならない。そうすれば直ちに、宗教的人間にとって〈世界〉はすべて〈聖なる世界〉であることが明らかになるであろう。(風間敏夫訳) 聖と俗の境界は「聖なるもの」のなかに存在する出来事である。「聖なるもの」の発見という試みは、この世界そのものが「聖なるもの」であるという原点とともになくてはならない、というのです。 「宗教的人間」はエリアーデを読み解く最重要の鍵語の一つです。彼は「宗教的人間」と「非宗教的人間」がいる、と考えているのではありません。むしろ、人はすべて高次な意味で「宗教的人間」である。そう在るほかない、とエリアーデは考えています。神などいないと断言し、世の人が「聖なるもの」とするものをまったく重んじていない。そんな人がいてもエリアーデは考えを変えなかったのでしょう。その点では彼も『カラマーゾフの兄弟』のイワンと同意見なのです。
宗教学の射程
ここでエリアーデの言葉を引いたのは、宗教学の射程と宗教の射程の差異を感じ直してみたかったからです。エリアーデはさまざまなところで、宗教学の使命を自らに問い直す言葉を書いています。さまざまな現象を宗教学的に解釈することが宗教学のなすべきことであれば、そこで私たちが目にするものは、やはり、知識の領域を出ないのかもしれません。 先に見た『聖と俗』には「宗教的なるものの本質について」という副題が付されています。彼にとって「聖なるもの」を論じることはそのまま宗教とは何かを問うことだったのです。彼は宗教学者の「最高の目的」をめぐって次のように述べています。 宗教的人間(homo religiosus)の振舞いとその心的宇宙とを理解し、これを他の人びとに理解させることは、宗教学者の最高の目的である。(同前) 問題はその人の内界、すなわち「心的宇宙」にかかわるものである。ユングの言葉を借りれば、「普遍的無意識」に関係することであり、特定の人の思想、信条のありかたとは必ずしも性質を同じくしない。それがエリアーデの認識だったと思います。 宗教学が「心的宇宙」を見失ったのはいつなのか。エリアーデがこう書いているのは「心的宇宙」という実証が困難な境域を宗教学が見過ごすようになっていったからにほかなりません。 宗教という、得体のしれない巨大にして深甚なものを宗教学がどれほど捉え得ているのか。そうした本源的な問いがエリアーデから発せられているのも見過ごしてはならないように思います。 私たちはこの往復書簡において、その出発から宗教を宗教学的にだけ論じることを試みているわけでもありません。むしろ、それを創造的に超えていきたいと願っています。生けるものとして、でき得れば、時間的現象ではなく、永遠なるものの扉としての宗教を論じてみたいと思うのです。 大学などで宗教学は「人文科学」の一分野であると考えられています。英語では humanitiesですから、科学を意味するscienceを含まないのですが、そのありよう─特にこの国では─が、実証を重んじた一つの「科学」であることは否定できない事実です。 こういうことで「科学」を軽んじているのではありません。科学がなければ、私たちの生活はなりたちません。こうして釈さんにお手紙を書くときも私は、科学と、その転換である技術の恩恵を被っています。 科学は世界のある現象を微細に明らかにします。私たちが日常生活を送るなかでは感じたり、認識できない事象や構造、そしてはたらきを明らかにしてくれています。ですが、科学が存在世界の謎をすべて解き明かしたかといわれると大きな疑問が残ります。今、私たちが問い直している「聖なるもの」を科学は十分に対象にしてきませんでした。むしろ、できなかったというべきなのでしょう。 もちろん、宗教学を軽んじているのでもありません。宗教学によってそれぞれの宗派にあった厚い壁に他の宗派へと通じる道が見出されたのは大きな出来事でした。そうした認識の基盤を準備したことは革新的ですらありました。しかし、ここで考えようとする「聖なるもの」は、学問的な実証よりも人間の経験と深く通じるものなのではないかと思うのです。 こういった方がよいかもしれません。数多くの宗教を研究し、そこに立ち現れた「聖なるもの」の現象をいくつ積み上げても、その本質が浮かびあがってくることはないのではないか。そこに残るのは抜け殻である「死せる概念」としての「聖なるもの」なのではないか。