[キャンドル・ジュンさん]福島に通い13年 炎で困難は乗り越えられるか…“騒動”を経て考えたこと
ウェルネスとーく
アーティストのキャンドル・ジュンさんは20歳の頃、ろうそくを作るようになりました。空間演出も手がけ、今は災害の被災地などでキャンドルを灯(とも)す活動を続けています。(聞き手・利根川昌紀) 【写真12枚】キャンドル・ジュンさんが東日本大震災の「月命日」に福島県で開くイベント「CANDLE 11th」
ダライ・ラマとの出会い
――ジュンさんのお店には、カラフルなキャンドルが並んでいます。当時からこのようなものを作っていたのですか。 変わらないようにしようって意識しています。「一点物です」ってなってしまうと、飾っておく作品になっちゃう。灯してもらい、その人ならではの世界観を作ってほしいと思っています。 ――キャンドルを作り始めてから、ファッションショーやパーティー、コンサートなどの空間演出を手がけるようになりました。 自宅でろうそくを灯していたら、部屋が変わっているということで人が集まってくるようになりました。24時間カフェ状態になっちゃって……。 いろんな職種の人たちがおもしろがって、人から人へと伝わり、ファッションや音楽などのイベントで演出を担うようになりました。 ――2001年にダライ・ラマ十四世と出会ったことが、今の活動へとつながっているそうですね。 (ダライ・ラマ十四世が提唱する)「世界聖なる音楽祭」というイベントが広島でありました。総合プロデューサーの近藤等則さんから、「原爆の残り火と言われている平和の火を灯してくれないか」とお声をかけてもらいました。平和の火は消してはいけないとも言われていました。 私は、それまで安全第一を訴えて、灯し終わったら消すというルールでやってきました。さて、どうしたものかと……。灯し続けるのは「戦争や核兵器はなくなっていないから」と言います。その目的を果たすことができるのであれば、その火を消すことができると……。 この平和の火をいつの日か消す――。これが私の生まれてきた意味だと思うようになりました。いつの日かこの平和の火を消すことを約束して、灯した火をいったん消すことにしました。 戦争やテロなど、悲しみが生まれた場所に旅してろうそくを灯し、その悲しみの意味を学び、悲しみから憎しみが生まれる流れを変えていく――。それが私の仕事だと考えました。 広島や長崎で灯している間、亡くなった方たちと会話をしたつもりになっている自分がいました。その人たちの思いを自分が背負い、代弁させてもらう許可を得る。その後、沖縄や米ニューヨークのグラウンドゼロ、アフガニスタン、中国など、戦争やテロが起きた場所を巡り、ろうそくを灯して祈るという活動を続けました。 ――地震や天災が起きた被災地にも足を運ばれています。 「悲しみから憎しみを生まず、喜びに変えたい」。そう考え、04年に新潟県中越地震が起きた時から、被災地に行くようになりました。3年たって復興住宅ができたのですが、その後も、「SONG OF THE EARTH」というフェスを10年間、新潟で続けました。 ――その間に東日本大震災も起こりました。 (震災直後の)3月14日、物資の提供や炊き出しのため、福島県いわき市で津波の被害が出た地域に行きました。 それまで原発反対運動をしていて放射線の怖さを知っていましたが、福島の人たちには「あれはおめえたち『東京者』の電気つくってたんだろ」と言われました。原発の反対運動をしていた自分の責任が、今ここにあると感じて反省しました。