「がんで死ねるのは幸せだ」…「透析患者の死」はタブー視され、死の臨床に生かされない「異様な現実」
看取りという仕事
福生病院のケースで、裁判の審理や報道の関心は、医師の説明義務や患者の意思決定の経緯に集中した。しかし、私があえて注目したいのは、透析を中止した患者に対する緩和ケアとチーム医療の不在についてである。 患者が8月14日(死亡の2日前)に入院したとき、病院の治療方針は、患者と家族には伝えられていないが、「看取り」とカルテには記されていた。 では「看取り」とはなにか。看取りの理念は、一般にこう説明される。 近い将来に亡くなることが予見される患者に対して、患者本人の意向を尊重することを前提に、身体的・精神的・社会的苦痛、霊的苦痛(スピリチュアル・ペイン)をできるだけ緩和し、充実した最期を迎えられるよう援助をすること。 看取りとは決して、ただベッドに横たわらせ、苦しみが酷くなるまで待って鎮静し、最後に死亡診断書を書いて送り出す、という「流れ作業」のことではない。 担当医師は法廷で、弁護士から尋問されるたび、「忙しかった」「ばたばた」していたと繰り返し、自分がいかに多忙だったかを強調した。患者の亡くなった8月16日、患者の病室に足を運ぶ午前11時半までに彼は3件の手術をしており、多忙だったことは言い訳ではなさそうだ。実際のところ、一定規模の病院に勤務する医師の働き方は過酷で、時間の余裕を持つものなどほとんどいない。患者が透析再開を訴えたときには、すでに術中死の可能性があるほど全身状態が悪化していたと担当医は反論している。 厚生労働省は、人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドラインの中で、「時間の経過、心身の状態の変化、医学的評価の変更等に応じて本人の意思が変化しうるものであることから、医療・ケアチームにより、適切な情報の提供と説明がなされ、本人が自らの意志をその都度示し、伝えることができるような支援が行われることが必要」と示している。 福生病院のケースで患者は、鎮静の対処が始まって、わずか3時間で死に至っている。投与されたドルミカムの量が適切だったかどうかは見解が分かれるが、いずれにしても、そこに至るまで、緩和ケアが行われた形跡はまったく見当たらない。日本緩和医療学会によれば、鎮静を検討する前提には、それまでに緩和ケアが提供されていることが必須だ。さらに各種論文を見ても、鎮静期間の中央値は2~4日である。患者は44歳という若さで、透析歴もまだ4年、終末期ではない。そんな患者の命が、入院以降、あまりに雑なかたちで扱われてしまったような印象を私は受けた。 透析患者の病院での看取りについて思索を深めるために、ここで私自身のことを振り返りたい。少し遠回りになるけれど、時間の流れをいったん2017年夏に戻す。 林の死後、私は約1年半、ほとんど家に引きこもり、林の遺した犬養毅の小説を仕上げる作業にとりかかった。この間、病院のベッドで痛みに苦しむ林の姿が脳裏から消えることはなく、安らかな最期を迎える環境を用意できなかった自分を責めた。仕事の合間に坐禅を再開するも、半眼の先にはいつも林の最期の姿が浮かび、法界定印(坐禅をするときの手の形)には涙が溜まるばかり。2019年春、原稿が完成するころには、私の頭はすっかり白くなっていた。 この間、書くことに集中しているときだけは現世を離れ、登場人物の世界に没入し、自由になれた。だから私は、林が遺してくれた宿題に生かされた気がする。 犬養毅の物語は、KADOKAWAの編集者、岸山征寛さんの的確な助言によって、『狼の義 新 犬養木堂伝』として上梓することができた。同じ年の年末には第23回司馬遼太郎賞を受賞するという、身に余る栄誉にもあずかった。司馬作品の熱心な読者であった林が知ったら、どんなに喜んでくれただろう。 こうして望外の喜びも得て、表面的には対外的な仕事も再開した。しかし、胸の奥には林の最期をめぐるやりきれぬ思いを抱えたままで、私の時間は林がいなくなったときから1秒たりとも針を刻まなかった。 私はときどき仕事の合間をぬって、和美さんが暮らす山深いログハウスへ逃げこむように車を走らせた。林の最期の日々、病室に足を運んでくれた、あの和美さんである。 ある秋の日の夕暮れ、ログハウスの広いデッキにふたりで座っていた。 薄桃色の幻想的な富士山が、遠くにぼんやり浮かんで見えた。私の手元には、和美さんが淹れてくれたコーヒー。足元には彼女の相棒のバーニーズ(大型の犬種)。人の悲しみを察する賢い犬で、ずっしり重い背中を私の脛にぴったり預けたまま、片時も離れようとしない。 自然と林の話題になったとき、私はつい恨み節になった。あの病院の主治医は緩和ケアらしいことを何ひとつしなかった、ひどい医師だった、とこぼしてしまった。 すると和美さんはジッと私の顔を覗き込んだあと、軽く突き放すように言った。 「惠ちゃん、それは仕方ないかもね」 すっかり同意してもらえるものと思い込んでいたので、一瞬、聞き間違えたかと思った。和美さんは滔々と続ける。 「私も大きな病院でそういう現場に何度か立ち会ってきたけど、医者って忙しすぎるんだよね。ごくわずかな例外を除いて、患者を看取るような働き方にはなっていない。だから彼らが看取りまでするなんて最初から無理、できないと私は思ってる。緩和ケアって、そんな簡単な仕事じゃないよ。 あの夏はさ、みんなが新さんのことを見ていたでしょう。だけど私は、惠ちゃんを支える人も必要だと思った。ずっとテンションが高くてさ、悲しみを隠して明るくふるまう姿が痛々しかった。新さんは、そういう惠ちゃんの姿も、あのドクターのふるまいも、ベッドに横たわって冷静に見つめていたよ。 死にゆく人の魂の言葉を受け止める。愛する人を見送る悲しみに寄り添う。それを緩和ケアと呼ぶのなら、そういうことをするにはきっと別の人がいるんだよ」 和美さんにそう説かれたとき、私は初めて、看取りの場にあった当時の自分を客観視する視座を与えられた気がする。 心の奥に沈殿していた、ぶつける先のない怒りに似た黒い感情を、少しずつ手放すことができた。悲しみは依然として胸に重く居座っているけれど、それに無抵抗に翻弄されるだけでなく、怒りの対象を、観察の対象としてとらえ直すことができた。 林の最後の主治医となったあの医師は、「林さんの病気では緩和ケア病棟に入れない」と言った。それは彼の責任ではない。現行の医療制度では、がん患者でなければ緩和ケアの体制を作ることは難しい。主治医は日々の外来診療をこなし、突然やってくる救急患者にも対応し、肝胆膵外科で困難な手術も行っていたはずだ。院内の煩雑な業務をこなし、研修医の指導もしながら、その「合間」に「看取り」を行っていた。自分の専門領域ではない透析患者、しかも終末期に飛び込んできた患者で、これまでの人生の歩みもほとんど分からない。 がん以外の患者の看取りは、救命を本業とする医師が、業務の「合間」に行っている。その現実を思うとき、今回の取材で、ある大学病院の腎臓内科医が私に漏らした言葉が頭をよぎった。手元の録音から書き起こしてみる。 「透析を離脱した患者さんの死は、とにかく悲惨です。僕らは在宅で死ぬ患者さんのことは分かりませんが、病院では多くの患者さんがカーテンの中で、苦しみながら亡くなっていきます。腎不全患者に緩和ケアはできませんから、家族の目がある施設とかでは許されないような、酷い死に方をさせています。医師も看護師も知っているけど、それは話しませんよ。コロナ禍で病院の看取りの現場はますますブラックボックスになっていますしね」 そんな環境に身を置き、苦しみに満ちた死に向き合い続けていれば、医療従事者も魂の深いところを傷つけられるような気がする。患者も遺族も医療者も、皆が不幸ではないか。 ここで改めて福生病院のケースを再考したい。患者と家族のそばに、人生の最期に真摯に向き合う緩和ケアやチーム医療があれば、どうだっただろう。 女性は、44歳。息子に子どもが生まれたばかりで、まだこれからという年齢だ。繰り返すが、彼女は終末期ではなかった。透析を苦に思いながらも、日々の通院は続けていた。それは、生きたいからだ。生きていれば、辛いことも楽しいこともある。24時間ずっと苦しみに覆われているわけではない。だが大きな苦しみに耐え続けている人間は、そこに別の苦しみがひょっと乗っかるだけで、いとも簡単に生とは反対側に飛び込んでしまうことがある。 前腕のシャントが閉塞し、新たな手術が必要になるという事態が生じて彼女は慌てた。岐路に立たされたとき、担当医が彼女に伝えた言葉を改めて引用する。 「血液透析は治療では無い。腎不全というものによる死期を遠ざけているにすぎない。多くの犠牲もつきもので、最も大切なのは自己意志である」 すでに拙著の前半をともにしてくれた読者には、透析という医療が決して「死期を遠ざけているにすぎない」のではないこと、そして、この言葉がいかに透析患者の尊厳を傷つけるものかは理解してもらえるだろう。たったひとりの医師の主観が、患者の命を左右していいはずがない。 外来の限られた時間に、人生を決定するにはあまりに早すぎる。17年前とはいえ、別の医師から「うつ」を指摘されていた患者のフォローを、外来に手術にと多忙を極める医師ひとりに、業務の「合間」に背負わせてしまってよかったのか。 さらに一連の報道でも学会の議論でもまったく取り上げられていないが、福生病院のケースは、透析患者の介護者が抱える問題も如実に伝えている。 私の取材では、夫婦の生活は経済的にかなり厳しい環境にあった。おとなしい性格の夫は肉体労働をこなしながら、週に3回、車椅子の妻の透析の送迎を行っていた。妻が透析を止めたいというたびに励まし、説得した。待望の孫も生まれ、これからの生活に希望を抱いていた。 頻回な通院、さらに生活に制約の多い透析患者の介護は、負担が重い。夫は、妻の命がかかる大事な場面で倒れ、緊急手術を受けねばならぬほどの痛みと苦しみを、心と身体に抱えていた。 週に3回の通院を通して日常的なやりとりのあった維持透析クリニックの医師は、透析中止を思いとどまらせようと、福生病院に連絡を入れている。しかし、夫婦が福生病院に移って以降、彼らはこれまでの人間関係からすべて切り離され、相談できる人も、支えてくれる人も誰もいなくなった。 私は、人生の最終段階で患者自身が望まぬ医療を拒否する「尊厳死」を否定する立場にはない。しかし、このケースを取材する限り、妻も夫も、そんな確固たる信念をもって生と死に向き合っていたとはとても思えない。妻は透析という医療に長期的な展望を持てず、目の前の苦しみをただ回避しようとしていたように見える。 彼女は最後の3日間、塗炭の苦しみの中で必死に助けを求めた。透析を再開してほしいと、はっきり声にした。繰り返し、懇願した。しかし、日々の業務に追われる病院の中で方針の変更は許されず、すべては「流れ作業」のひとつとして進んでいった。彼女はひとりベッドの上で夫に助けを求めながら、苦しみに溺れながら息を引きとった。 ひとの気持ちは、いかようにも変わりうる。「透析を止めたい」、そう訴える患者の言葉の裏側には、いくつもの事情がある。死にゆく患者の本音を探り、介護者の話にも耳を傾け、患者の様子を慎重にうかがいながら治療方針を考えていく真の意味での緩和ケア、チーム医療が機能していれば、この命は救えていたのではないか。 裁判の法廷に立たされたのは、病院の担当医である。しかし真に問われるべきは、透析の「出口」を整えてこなかった日本の医療なのかもしれない。 近年、福生病院のケースのように、透析を止めて死に至るケースは、実は特殊な話ではないことが数字として分かってきた。2022年、東邦大学医療センター大森腎病院の酒井謙主任教授らが、全国の透析クリニックを含む関連4学会の会員アンケートを行ってまとめた研究で初めて明らかにしたものだ。 それによると2018年1月からの2年間、透析見合わせ(非導入)が917例、透析の終了が492例、確認された。調査がもう1年早ければ、林もこの数字の中の1人になっていただろう。乾いた数字のひとつひとつに、命の重みがある。 透析をめぐる臨床の現場では、多くの「死」が蓄積されてきたはずだ。死にゆく透析患者は、どのようにして死に至っているのか。それに対して、この国の医療はどう機能しているのか。もし機能していないのだとすれば、それはなぜなのか。 * さらに【つづき】〈透析患者には「緩和ケア」がなく、行き場がない…多くの人が知らない、「透析患者」はどのように死を迎えているのか〉では、透析患者の終末期について見ていく。
堀川 惠子(ノンフィクション作家)