紫式部と清少納言の関係は? 日記に残された「浅学で鼻もちならぬ人物」という罵り
宮廷生活をひたすら賛美する清少納言の『枕草子』
『枕草子』は宮廷生活の賛美に徹していて、そこが人間の陰影両面を描く『源氏物語』や『紫式部日記』との大きな違いである。その特色はともすると高慢とも映りがちな陽性で外向的な作者の性格の反映でもあった。 有名な「香炉峯の雪」の記事には、彼女のそんな性格が垣間見える。 ある雪が深く積もった日、御格子(上に押し上げると開く板戸)を下ろして女房たちが話していると、定子が「少納言よ、香炉峰の雪はどんなかしら?」と尋ねた。すると清少納言は、御格子を上げさせてから御簾を巻き上げ、外の雪景色を眺めさせた。定子はいかにも満足気に笑ったという。 この話は、平安時代に広く読まれた漢詩集『白氏文集』の中の句「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を踏まえている。要するに、定子は「外の雪景色を見たい」ということをエスプリをきかせて表現したのだが、清少納言はこれをちゃんと理解して絶妙な応答をしてみせたのだ。居合わせた女房たちは清少納言の機転をしきりにほめそやしたそうだが、本人も得意満面であっただろう。 しかし、このような幸せな日々はそう長くは続かなかった。 長徳元年(995)には道隆が病死。子の伊周がその後継をめざすも、道長が政界で躍進し、やがて伊周は失脚。中関白家の没落につれて定子の境遇も沈んでゆく。長保元年(999)には第一皇子敦康親王を生むが、この頃には政権は完全に道長のものとなっていて、同年にはついに道長の娘彰子が入内し、翌長保2年(1000)には中宮に。皇后となった定子は同年末に内親王を出産するが、その翌日、不幸にも25歳の若さで急死してしまった。 清少納言はこれを機に完全に後宮を退いたらしい。『枕草子』が完成した頃には、定子後宮の輝かしい日々はすっかり過去のものとなっていたのだ。
清少納言をこき下ろす『紫式部日記』
そして、清少納言の退場後に中宮彰子の女房として後宮に現れたのが、紫式部だった。ただし、定説では彼女の宮仕えは寛弘2年(1005)頃からで、清少納言の退出からすでに5年ほど経過しているため、二人が宮廷で直接顔を合わせることはなかったはずである。 とはいえ、式部は清少納言の文名はかねて耳にし、彼女が書いたものを読む機会もあったらしい。だが、式部の清少納言への評価はたいへん厳しいものであった。『紫式部日記』の消息体部分には、和泉式部や赤染衛門ら同世代の女流歌人への穏当な批評のあとに、清少納言をこき下ろす言葉が続いている。 曰く、いつもしたり顔をした鼻もちならぬ人物で、漢学の知識はお粗末、風流をきどってやたらともののあわれを感じる風を装い、軽薄で......といった調子である。そして最後は、「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」、こんな軽薄な女は碌な死に方をしないだろう、とまで痛罵している。 確かに、「香炉峰の雪」のエピソードからは清少納言のキザな性格を想像することもできようが、それにしても苛烈な評言である。式部の主人彰子は清少納言が仕えた定子のライバルであったので、それで余計に清少納言に対抗意識を燃やしたのだろうが、それだけでは説明はつくまい。 もしかすると、式部はかつて清少納言と直接会ったことがあり、そのときに非常に嫌な思いをさせられた、というようなことでもあったのではないだろうか。 他方、清少納言は式部のことをどう見ていたのだろうか。残念ながら、後宮を退いた後の清少納言の動静はほとんどわからず、彼女の式部評を知る術はない。鎌倉時代の説話集『古事談』には、晩年の清少納言が零落していたことを示す話が載っているが、これがどれだけ事実を伝えているかは不明である。
古川順弘(文筆家)