道長の甥「藤原隆家」天皇に放った“驚愕の一言” いったい何があったのか?道長との逸話も紹介
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は道長の甥で伊周の弟の、藤原隆家と道長のエピソードを紹介します。 著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 【写真】道長の甥、隆家がすごした但馬国。写真は但馬国があった、兵庫県豊岡市の山陰海岸ジオパーク ■兄に負けず劣らず個性的、藤原隆家 藤原道長の兄・道隆には、個性的な息子たちがいました。1人は、伊周(3男)。伊周は父の死後、叔父の道兼や道長と権力の座を巡り争いますが、思い通りにはいかず、関白の座に就くことはありませんでした。
さらには伊周は思いを寄せていた故・藤原為光の3女のもとに、花山法皇も通っていると誤解(『栄花物語』)。伊周は弟の隆家と共に為光邸に向かいましたが、その従者が花山法皇に脅しの矢を放つという不敬事件を起こしたことで太宰府に左遷されます。後に都に召還されたものの、失意のうちに世を去ったのでした。 この伊周の弟が、隆家(道隆の4男)です。隆家もまた兄に負けず劣らず、個性的でした。 では、隆家はどのような人物だったのでしょうか。平安時代後期に編纂された歴史物語『大鏡』には、隆家は次のように書かれています。
「伊周と同じ腹に生まれた弟君が、17歳で中納言となった隆家でした。隆家は世間の人々から、性悪者・ろくでなしなどと言われていました」と。 冒頭からなかなかの言われようですね。ちなみに隆家の幼名は「阿古」。可愛い幼名です。 実はこの隆家、従者が花山法皇を弓で射た事件で連座。隆家は出雲(島根県)権守に左遷となったものの、病などを理由に但馬国(兵庫県北部)にとどまった、と『大鏡』には記されています。 兄・伊周が赦免されると、隆家も許されて京に戻りました。隆家は、兵部卿や正二位の前中納言に就き、政界復帰の道を歩みます。このときの隆家を『大鏡』では、「とても才略のある人」だと世間から思われていたと書いています。冒頭で書かれていた「性悪者・ろくでなし」とは正反対な印象です。