道長の甥「藤原隆家」天皇に放った“驚愕の一言” いったい何があったのか?道長との逸話も紹介
そこに隆家がやって来たので、皆が急に改まり、居住いを正し始めました。それを見た道長が隆家に「まずは、紐を解いてはどうか。興が醒めてしまう」と声をかけました。 恐縮しながらも、躊躇している隆家。そこに藤原公信が「私が解いてあげよう」といきなり後ろから隆家の衣の紐を解こうとしたのです。 すると、隆家は急に不機嫌になり「この隆家、不運でこそあれ、貴公に馬鹿な真似をされるような身ではない」と怒ってしまったのでした。
周囲の人々も、まさかの事態に顔色を変えます。民部卿(源俊賢)などはびっくりして、(さぁ、一大事。とんでもないことになるぞと)上目を使い、皆の顔を見回していました。 そこに割って入ったのが、道長でした。道長は笑いつつ「今日はそのような冗談はやめるのだ。この道長が紐を解こう」と言い、隆家の側に寄って、紐を解いたのでした。 隆家は「これこそ、あるべき姿」と機嫌を直し、酒盃を重ねます。その隆家の様子を、道長も嬉しそうに見ていたのでした。
この逸話は、隆家のありのままの感情で動く姿と、臨機応変に物事に上手く対処する道長の賢明さを表していると言えるでしょう。 ■ライバル関係にあった道長と隆家 隆家がまるで道長に籠絡されたかのような逸話が『大鏡』にはありますが、隆家は道長のライバルでもありました。 中関白家(関白・藤原道隆を祖とする一族)にとって、一条天皇と皇后・定子(道隆の長女)の間に生まれた敦康親王は期待の星でした。 隆家は、敦康親王が皇太子に立てられることを望んでいました。道隆の死、そして定子の崩御。悲劇と衰退に見舞われた中関白家の劣勢を回復するのは、敦康親王だと期待をかけていたのです。
『大鏡』にも、隆家は、敦康親王に望みをかけていたと記されています。親王が立太子(皇太子の地位に就くこと)されるのを念願していたのです。 隆家はそのような想いを抱く中で、一条天皇が重態になったときに、御前に参上して一条天皇のご意向を伺います。 しかし、天皇は、敦康親王の立太子を拒みました。結果的に、有力な後見人がいないということで、親王の立太子は実現しなかったのです。 その代わりに皇太子に定まったのは、道長の外孫・敦成親王(のちの後一条天皇。母は道長の娘・彰子)でした。