集団避難で「空っぽ」になった集落…残ることを選んだ男性と避難先で暮らす家族 能登半島地震のその後
「空っぽ」の集落を見回り、復旧状況を伝える
南志見生まれ、南志見育ちの大宮氏は、毎日地区を見回りながら復旧の状況を確認し、避難した住民に伝えている。土砂や瓦礫などで封鎖された道路が開通され安堵の言葉を口にした。「これで連休に(車を)救出できるから。みんな金沢まで持っていけば使える。ここ済んだらちょっと楽になった。こんなのが嬉しい。次また難が待っとるけど1つ1つや」。 地震から1カ月、避難所となっていた旧南志見小学校で仮設住宅の建設が始まった。少しずつ復旧が進む一方、大宮氏は避難した住民の変化に戸惑いを感じていた。 「アパートに入ったり一軒家を借りたりする人は結構おる。駄目とは言われんもんね。その人たちの生活基盤がそこへしばらく1年2年は行ってしまうだろうなと。そうすると帰ってくる確率はものすごく下がるよね」(大宮氏)
南志見からの避難先となっている金沢市の体育館には高齢の被災者も多くいる。そこでは「金沢からどこも行かん。年やさかい、そう決めた。どれだけ南志見に住宅ができてもいかれん」「故郷をあとにするときにもう終わりやと思った。これでここに住むことはないやろうなと思って。諦めた方が気の楽なこともある」といった声が見受けられた。 石川県議会議員の吉田修(よしだ・おさむ)氏は、県の依頼を受け、南志見で集団避難を呼び掛けた。その理由は「親族が南志見出身だから」だという。吉田氏本人は、輪島市出身でも、輪島市選出でもない。 「これで良かったのかと思いつつ、ただ本当に申し訳ないという気持ちもある。大切な故郷を捨てて避難させたということで申し訳なかったなと。後々、時間が経過する中で、皆さんにまたご判断もいただければいいのかなと思う」(吉田氏)
故郷を思いながら遠く離れたアパートで暮らす家族
輪島市からおよそ100キロ離れた金沢市には、アパートの一室で、南志見地区から集団避難した、野口成二(のぐち・せいじ)さん、妻の志穂(しほ)さん、去年生まれた銀志(ぎんじ)くんの3人家族が暮らしている。 地震からおよそ2週間後にアパートに入ったという野口さん一家。民間の賃貸住宅を2年間仮設住宅として使う、「みなし仮設」の制度を利用している。5年前に建てた自宅は裏山が崩落し、やむなく集団避難を受け入れた。 「家を建てて、子どもが生まれて、さあ頑張るぞといった途端にこれだったので。それでも生きていたのでよかったですけど。亡くなった方もいますけど…。なんとか生きていてそれだけが救いやなって思います」(野口成二さん) 地震の前は地元の農業法人で正社員として働いていたが、避難先の金沢市からは通勤に片道2時間ほどかかるため退職したという。 「仕事とか、見つからないということはないと思うんですけど、収入が減ったりするのかなと思うとちょっと心配はありますね」(野口志穂さん) 「頑張るしかない、前向きに。落ち込んでいても仕方ないので。前向きに家族のために働くしかない」(野口成二さん) そうした中、野口さんはJAの職業紹介制度に登録した。紹介されたのは、農業の経験を生かせる正社員の求人だ。家族のことを考えれば好条件の求人だったが、野口さんの中で南志見を思う気持ちは消えない。