「ソ連」崩壊から大国「ロシア」の復活 忘れられつつあるソ連後の歴史
2016年の米大統領選挙への介入疑惑や北朝鮮問題での北朝鮮擁護など、ロシアはこれまで以上に大国として存在感を高めています。その一方で、世論調査によると、ロシア人の間では「ソ連崩壊への後悔」が高まっています。 【写真】「ロシア革命」から100年 世界に今も問いかけるものは? ソ連の正式名称は「ソビエト社会主義共和国連邦」。若い世代にはもう馴染みのない国名かもしれません。「強いロシアの復活」と「ソ連への郷愁」は、ソ連崩壊後の歴史のなかで培われたものといえます。ソ連崩壊からの歴史を振り返ります。(国際政治学者・六辻彰二)
■ソ連の「建て直し」
ソ連崩壊は1989年の東西冷戦終結と軌を一にして進みました。その端緒は1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高権力者である共産党書記長に就任したことにありました。 当時、国営企業の肥大化や米国との核軍拡競争などによって、ソ連は深刻な経済停滞に陥っていました。この背景のもと、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」を意味する「ペレストロイカ」をスローガンに掲げ、経済改革に着手。個人営業が認められるなど、計画経済からの転換が段階的に進められました。 これと並行して、ゴルバチョフは「グラスノスチ(情報開示)」を掲げ、秘密主義的なソ連体制の刷新を図りました。 対外的には「新思考外交」の旗印のもと、西側諸国との関係改善を模索。1986年にアフガニスタンからのソ連軍撤退が発表され、1987年には米国との間で中距離核戦力(INF)全廃条約に調印するなど、米ソの緊張緩和が進みました。これらを踏まえて、1989年のマルタ会談で、ゴルバチョフは米国ブッシュ大統領との間で冷戦終結に合意したのです。
■ソ連内部の権力闘争
しかし、ソ連の「建て直し」を目指したゴルバチョフの方針は、結果的にソ連崩壊を加速させることになりました。 ペレストロイカや新思考外交は日本を含む西側諸国から歓迎されましたが、ソ連の中枢を占める共産党幹部や官僚、ソ連軍にとっては「自らの特権を脅かすもの」でもありました。 「体制内の抵抗」を克服するため、ゴルバチョフは1988年にソ連の最高意思決定機関であったソ連最高会議を廃止。入れ替わりに、複数政党制に基づく選挙でメンバーを選出する人民代議員会議が発足しました。冷戦終結の翌1990年には人民代議員会議で憲法が改正され、共産党の指導的役割が否定されるとともに強力な権限をもつ大統領制が導入され、ゴルバチョフが「ソ連大統領」に選出されたのです。 この改革は西側の規準でいえば「民主化」でしたが、ゴルバチョフの権力を拡大させるものでもありました。その結果、盟友シュワルナゼ外相が「独裁」を理由に袂を分かつなど、ゴルバチョフの求心力は徐々に低下。さらに、ゴルバチョフの権力基盤としての人民代議員会議の発足は共産党保守派の勢力を衰退させた一方、改革の徹底を求める急進的な勢力の台頭をも促す結果となりました。