<米軍普天間基地の移設問題で注目>翁長雄志・沖縄県知事ってどんな人?
保守政治の実力者
「保革を超え、県民の心を一つにした県政を」。1994年11月の知事選に保守系候補として出馬した翁長氏の兄・助裕氏が、選挙戦最後の街頭演説で訴えた言葉だ。当時44歳の県議だった翁長氏も兄の発言を鮮明に覚えている。翁長氏は「ある意味では、翁長家の伝統と言える」と保革を超えた政治理念が脈々と受け継がれていることを強調する。 翁長氏は自民党幹事長など要職を歴任して陰に陽に沖縄の政治を動かしてきた。98年の知事選では元沖縄開発庁長官で革新系の衆院議員である上原康助氏に出馬を打診したこともあった。保革双方から反発の声が上がり擁立を断念したものの、当時から超党派を目指していた。自民党県連幹事長時代に普天間飛行場の県内移設を容認した時期もあるが、民主党政権の迷走に憤り、県外移設要求へ転じた。県内移設断念やオスプレイ配備撤回を求める「建白書」を政府へ提出する東京要請行動でも先頭に立った。
県知事として政府と対峙する際、翁長氏は沖縄の戦後史を引用し沖縄の民意をぶつける場面が目立つ。例えば、4月5日の菅義偉官房長官との会談で翁長氏は、米統治下の沖縄で最高責任者だった高等弁務官として圧政を行っていたポール・キャラウェイ氏と菅氏の姿勢が重なると指摘した。辺野古移設を「粛々と進める」という菅氏の言葉を引用し、知事選や名護市長選、衆院選などで示された民意を顧みない姿勢を批判した形だ。 キャラウェイ高等弁務官が在任中の62年2月1日、立法院(沖縄の日本復帰前の県議会に相当)は米国の沖縄統治について国連の植民地解放宣言も引用しながら「新植民地主義」と批判し、施政権返還を要請することを決議した。発議者には立法院議員だった翁長氏の父・助静氏も名を連ね、代表で発議理由の説明で登壇していた。翁長氏がこうした戦後史を念頭に置いた発言をするのは、決して戦後史が「昔話」ではなく、沖縄で今も続く過重な基地負担につながっている動きだからだ。 翁長氏は自らを「私は保守の政治家だ。しかしながら私は、沖縄の保守の政治家だ」と表現する。沖縄の政治は、基地を容認し現実路線で経済振興を重視する保守と基地に反対し平和を重視する革新で対立してきた。しかし、基地負担の軽減が必要であるとの認識では保革とも共通し、時には保革が一致して政府に要請行動を行ってきた歴史がある。米軍から「銃剣とブルドーザー」で土地を強制接収され、過重な基地負担を背負わされてきた沖縄住民の体験が根底にあるのだ。県知事選挙の中で翁長氏は「なぜウチナーンチュは自分で持ってきたわけでもない基地を挟み、いがみ合うのか。誰かが上から見て笑っていないか」と政府が押し付けた基地をめぐって県民同士が対立することのむなしさを心の奥で感じてきたことを強調する。5月下旬にも訪米し米政府へ辺野古移設反対を伝える意向の翁長氏だが、戦後史を踏まえた上で昨年の知事選など各選挙で示された沖縄の民意を伝えるとみられる。