知られざる「日大」裏面史、続発する不祥事の深刻 「魔窟」に群がった政界黒幕から暴力団組長まで
「日大中興の祖」として知られる古田重二良(じゅうじろう)である。 日本大学をはじめ、法政大学や明治大学など、日本の主要私大の多くは戦前の「法律専門学校」を前身としている。戦後、日大の理事長に就任した古田は、旧専門学校からの脱却を図るとともに、「世界的総合大学」を目指し、理系の学部・学科を中心に増設。わずか10年で、日大の収入を100倍にしたという。 1958年には、自らが新設した最高ポスト、「会頭」に就き、「日大の天皇」とまで呼ばれた。さらに1962年には、政官財の重鎮から右翼まで糾合する保守団体「日本会」を設立し、その政治力をもって、「私学助成制度」の新設を時の政府に働きかけた。
著者がたどる古田の歩みは、そのまま「日本私学史」を投影しているのだが、その古田に私淑していたのが、後に「日大の首領」と呼ばれることになる前出の田中英壽だった。 ■田中英壽の「権力の源泉」 青森県出身で、日大相撲部のエースとして学生横綱に輝いた田中は卒業後、角界へとは進まず、日大の職員となるのだが、当時の日大トップが、田中と同じく職員から身を起こし「会頭」にまでのし上がった古田だった。 田中が学生横綱だった頃から彼に目をかけていた古田は1969年、東大のそれと並び称される「日大紛争」で、2万5000人の学生から糾弾され、会頭の座から退き、翌年に失意のまま亡くなる。対照的に田中は、その「紛争潰し」で頭角を現し、1973年からは、運動部を所管する「保体審」(保健体育審議会)の事務局、「保健体育事務局」に勤務。組織運営のノウハウを身につけるとともに、それを掌握する術を学び、出世の足がかりをつかむ。
後に、これら日大本部直轄で、日本の大学スポーツを代表する数々の運動部を統括する保体審と保健体育事務局に加え、120万人の卒業生を擁し、大学運営に大きな影響力を持つ「校友会」が、田中の権力の源泉となるのである。 田中は1996年、その後、3期9年にわたって務めた実力派総長、瀨在幸安の総長選挙を取り仕切ったことで、出世街道を駆け上がり、1999年に理事に就任した。2000年には前述の保健体育事務局のトップ(局長)となり、2002年に学校法人No.2の常務理事に昇進。そして2005年には、「校友会」の会長に就き、学内の権力と利権を掌握するのだ。