巨人“育成の星“山口鉄也が引退会見。米国下積みから横浜、楽天テスト落ちても…劇的野球人生
前人未到の9年連続60試合登板を達成した鉄腕で、NPB歴代2位の273ホールドを挙げた巨人の左腕、山口鉄也投手(34)が5日、今シーズン限りでの現役引退を表明。13年間に及んだプロ野球人生に別れを告げた。 2005年の育成ドラフト1位で巨人に入団。2007年に支配下登録され、67試合に登板して鉄人記録をスタートさせた2008年には新人王を獲得。翌2009年のWBC日本代表入り、オールスター戦出場、同オフの年俸1億円到達と、「育成出身選手初」というシンデレラストーリーを成就させてきた。 巨人で放つ存在感が、いよいよ絶対的な領域に達しつつあった2009年の夏に山口のルーツを取材して回ったことがある。少年時代から目標とされた兄。支え続けた恩師や無二の親友。才能を見いだした名伯楽から伝わってきたのは、5日の引退会見で山口が残した言葉そのものだった。 「ここまでやってこられたのも、ひとつひとつの出会いのおかげです」 3歳年上の兄、大輔さんが野球をやっていなかったら、おそらく山口も別の道へ進んでいただろう。 あるいは野球を選んでいたとしても、まったく異なる人生になったかもしれない。 「おたくの左ピッチャー、来年、ぜひともウチにほしいと思いまして」 日本列島が松坂大輔フィーバーに沸いた1998年の夏。いまも伝説として語り継がれる延長17回に及んだPL学園との準々決勝を横浜が制し、春夏連覇へ近づいた直後だった。全日本少年軟式野球大会が最終日を迎えていた横浜スタジアムの関係者席に一本の電話が入った。 電話を受けたのは菅田中野球クラブの菅沼努監督。受話器の向こう側の声の主は直前までテレビ画面に映っていた横浜の名物部長、小倉清一郎氏だった。 卒業する松坂からバトンを継がせるエース候補として、菅田中野球クラブの左腕・山口に白羽の矢を立てたのだ。 その瞬間、菅沼監督は苦笑いをこらえてた。小倉部長の誠意が込められたラブコールが、空振りに終わることがわかっていたからだ。横浜以外にも名門私立から声をかけられた山口は、Y高の愛称で知られる公立の横浜商業で野球を続けると心に決めていた。 私立勢が群雄割拠する激戦区・神奈川で、頑なにY高にこだわったのは、なぜなのか。 少年野球の菅東ドラゴンズ、菅田中学をへてY高に進みながら、エースの座に手が届かないまま高校野球を終えた大輔さんの無念さを、間近で見ていたからにほかならない。 Y高での3年間は甲子園と無縁で終わる。最後の夏も県大会の準々決勝で敗退。引導を渡したのは3年前に断りを入れた横浜だった。そして、卒業後の進路を最終的に決めるうえで山口の背中を押したのは大輔さんと、中学時代のキャプテンで無二の親友の久田将登さんだった。