巨人“育成の星“山口鉄也が引退会見。米国下積みから横浜、楽天テスト落ちても…劇的野球人生
米国マイナーリーグからのプロ生活スタート
2001年のドラフト会議で指名されなかった山口は、4年後にプロ入りする夢を描き直す。菅沼監督の母校である東都大学リーグの国士舘への推薦入学が内定し、卒業が近づいてきたときにMLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックスの代理人を名乗る日本人男性から突然連絡が入った。 「県大会でのピッチングを見ました。アメリカで入団テストを受けてみませんか」 戸惑いながらも年が明けた2002年1月に卒業旅行の感覚で渡米すると、予期せぬ合格を告げられた。 両親は難色を示したが、大学で野球をやめていた大輔さんは「たとえダメだったとしても、アメリカに行った経験をその後の人生で生かせる。まだ若いんだから」とエールを送ってくれた。 高校は別々になりながらも、太い絆で結ばれ続けた久田さんは「オレたち、テツ(山口)で夢を見たいんだよ」と熱く訴えかけてきた。当時の思いを、後にこう説明してくれたことがある。 「とてつもない才能をもった、ほんのひと握りの人間だけがプロになれる。初めてテツを見たときに、それがわかりました」 夢と希望に、周囲からもらった勇気も加えて乗り込んだアメリカで、すべてを木っ端微塵にされるほどのカルチャーショックを受けた。所属先は2Aでも1Aでもなく、最下層のルーキーリーグのミズーラ・オスプレイ。モンタナ州が本拠地と言われても、正直、どこにあるかもわからなかった。 それでも、アスリートとして根本的に違うことだけは瞬時にわかる。基本も何もなっていないのに、桁違いに速いボールを投げる若手がゴロゴロしている。月給は日本円にして約10万円。ハンバーガーが中心となる生活の合間を縫って、国際電話を介して久田さんへ本音を漏らした。 「つらいよ。早く日本に帰りたい」 「こっちはいま、みんなで飲んでいるよ」 「頼む。楽しそうな話はしないでくれ」 「この間は合コンやってさ」 「秋には帰国するから合コン組んでよ」 「金髪の姉ちゃんと仲良くなった?」 「そんなの無理だよ。バス移動ばかりで時間もないし、お金もないから」 あるときの会話を再現すればこうなる。 山口自身は「アメリカに行かなかったら、いまの自分はない」と後に感謝しているが、4年連続でミズーラ・オスプレイでのスタートを命じられた2005年の春にさすがに心が折れ、大輔さんに「日本のプロ野球の入団テストを受けたい」と伝えた。