韓国の「戒厳令」は、なぜ一夜にして潰えたのか? 背後にある「韓国が経験してきた30年の歴史」
並行し続けた歴史観
韓国のこれまでの30年間は、自国の現代史をどのように捉え、記述するか、その姿勢が争われた日々でもあった。そこでは正反対の二つの歴史観が並立し、一方の見方が力を得るか、それとももう一方が優勢になるのか、その狭間を揺れ動いてきた。 ところで、かつては朴槿恵も言論を抑圧された側だった、といったら、驚かれるだろうか? 1979年の朴正煕大統領暗殺の後、沸きあがる民主化の機運を武力で押しつぶし、光州を捨て石に全斗煥が権力の座についたのは誰もが知る事実であろう。 一方、彼にはクーデターで成立させた政権の正統性をアピールし、盤石なものとするために、「旧時代の誤った気風を果敢に清算」(大統領就任辞)するとして、前政権からの差異化を強調し、朴正煕の背後にいた旧軍部の影響力も排除する必要があった。朴政権の旧軍部に対し、全政権を支える勢力は新軍部と呼ばれた。 旧軍部排除の過程で、青瓦台を去った娘の朴槿恵もまた、自身の支持団体を強制解散させられた。彼女は、子として父の遺業を整理し、父に着せられた汚名をすすぎ、「祖国の近代化」に貢献した功績面が正当に評価され、後世に伝えられることを望んだが、そうした作業を物心で支える支持団体を失い、挫折する。 このように子が亡き親に対して行なう「追慕事業」は、孝倫理が規範化された韓国ではごく自然な顕彰行為だ。彼女の視点に立てば、それが妨げられるのは子として慙愧に耐えず、人権の抑圧とさえ感じられたかもしれない。 支持団体の再結成が許され、追慕事業が始動したのは1988年。民主化運動勢力とひとしなみに朴槿恵もまた、民主化宣言の恩恵で言論の自由を得たということだ。 こうした「名誉の復権」のため、過去30年の間、左右勢力はともに自分たちの「歴史」を描き、正統性を争ってきたが、互いの歴史観は平行線をたどり続け、統合されずにきた。 光州事件以後、地下に潜っていた民主化運動勢力は、分断状況下で抑圧と暴力、軍事文化に踏みしだかれた「民衆」という存在に光をあて、「南韓・反共イデオロギー」に依拠する既存の「国史」に対抗して、分断と分断暴力を否定する反米民族主義的な「民衆史」を定立した。この歴史観は金大中と盧武鉉の進歩政権の誕生を後押しした。 同じく抑圧されて同時代をすごした朴槿恵も、追慕事業を通じて父の名誉を取り戻そうと踏み出した。これはやがて朴正煕時代を正統化する歴史意識に連なるものだが、自叙伝によれば、彼女がそれを強烈に意識するのは「理念路線も国家観も異なった」盧武鉉政権時であり、「歪曲された歴史を正す」とまで言い切っている。 当時、分断状況の淵源に日本帝国主義を位置づけ、植民地主義批判の立場から親日派の清算が推進されていた。満州国で将校を務めた経歴をもち、1965年の日韓条約を強硬に進めた朴正熙も対象とされた。 後に大統領となった朴槿恵は2017年11月14日の朴正煕生誕100年を期して、李明博時代を通じて台頭してきたニューライト系の学者を動員し、歴史教科書国定化に着手する。当然、これには進歩派の学者や教師たちが猛烈に反対した。 いってみれば、朴槿恵がめざした「国史」と民主化運動勢力の「民衆史」は、同じ時代に萌芽し、地下に潜り、そしてまた同じ時代に地上に芽を出し、正史の座を争ったのだ。 これは対抗的な理念路線と国家観に依拠した「記憶の闘争」である。 たとえば、朴正熙が政権を獲得した1961年5月16日は、朴槿恵の歴史観では朴正煕による「革命」だが、民衆史では「クーデター」とみなされる。1980年5月18日の光州事件は前者では「暴動」「事態」だが、後者では「義挙」「民主化抗争」となる。つまり、対抗しあう二つの史観では、ある出来事への意味付与がオセロのようにひっくり返る。 いみじくも「1987」に登場する、朴鍾哲の父親(実在の人物をモデルにしている)が、1990年代半ばに私に語ってくれた言葉がある。 「歴史なんて紙切れ一枚のことだ。こっちの歴史は明らかにこんなふうに歩んできたのに、あっちではそうじゃないと言う。一夜にして変わるもんだ。ならば全ての歴史は正しく記憶されなくちゃいけない」 「こっちの歴史」と「あっちの歴史」が準拠する二つの国家観は、金泳三時代になされた光州事件の名誉復権を機に、対抗的に並立するようになる。 1997年、民主化への第一歩となる光州事件が勃発した5月18日が国家記念日に制定され、犠牲者たちが眠る望月洞墓地は「国立5・18墓地」に昇格された。その結果、殉職した軍人を祀る国防省管轄の「国立忠顕院」と、軍人に抵抗して闘った死者を祀る「国立5・18墓地」が、ともに国家に殉じた死者を顕彰する聖域として併置されることになった。 だが、両者がそれぞれ命を捧げた「国家」という対象は、互いに相容れない国家観に依拠している。一方は共産主義の同胞国家・北朝鮮と厳しく対峙する分断国家・大韓民国に殉じ、もう一方はきたるべき理想の国家、「統一祖国」のために殉じたとされる。 こちらで祀る友軍(英霊)があちらでは敵軍であるという二律背反について、倫理学者の金杭は「国家の追悼が〈友/敵〉区分を宙吊りにしている」と表現する。つまり、二律背反した国家の追悼行為のせいで、死者たちは国家にとって友軍であり、かつ敵軍という両義的存在、どっちつかずの状態におかれている、ということだ。その原点が金泳三時代だった。 相互の勢力の「並行関係」はその後も続いていく。こうして1980年代の終わりからじわじわと復権してきた朴正熙の人気は、「成長」「明るさ」「豊かさ」などのイメージを伴って1990年代にはうなぎのぼりとなる。 そうしたなか、長らく謹慎していた朴槿恵も1998年に政界入りをはたす。他方、光州事件の名誉復権で勢いづく民主化運動勢力は1998年に金大中政権を成立させ、さらに韓国初のろうそくデモによって盧武鉉を大統領に押し上げた。