韓国の「戒厳令」は、なぜ一夜にして潰えたのか? 背後にある「韓国が経験してきた30年の歴史」
民主化後も拷問が行われていた
日本では、1987年を境に韓国で一気に民主化が進んだと思われがちだ。本作を観てそうした感想を抱く人も少なくないだろう。だが、現実はそうではなかった。 韓国の政治学者や社会学者たちは、民主化を〈制度化/内面化〉の二つの次元で捉えた上で、1987年6月の「民主化宣言」後の歩みを「漸進的民主化」と分析している。どういうことかといえば、大統領直接選挙、地方自治の実現、言論の自由など、民主化のための制度的基準は整ったが、これを動かす民主的規範の内面化には至っておらず、いまだ反民主的な規範=「積弊」が清算されない民主化途上、という意味だ。 そうした「積弊」のうち、もっとも顕著なのが「縁故主義」であろう。朴正煕(パク・ジョンヒ)と全斗煥の時代を通じて両者の縁故地である「T・K」(大邱・慶尚北道)ネットワークによる人材登用が常態化し、民主化後も、血縁、地縁、学縁などによる縁故が政治を動かす政治風土が温存された。これが極端なかたちで噴出したのが、あの記憶に新しい「崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件」である。 他方、対共分室を根城に暗躍し、朴鍾哲を拷問死させた国家安全企画部(安企部)は実に1999年まで存続し、その後は国家情報院(国情院)として再編されるが、金大中(キム・デジュン)・盧武鉉(ノ・ムヒョン)という進歩政権の時代も含めて今日まで命脈を保ってきた。これは「北の脅威」を理由に敷かれた圧制の一形態だが、そこに内面化されているのは「権威主義」という「積弊」である。 金泳三(キム・ヨンサム)の文民政権、金大中・盧武鉉の進歩政権をへてなお、国家保安法は維持され、安企部・国情院による諜報活動と思想犯の取締りも止むことがなかった。 そうした現状に抗議する運動は1987年の民主化以後も、また運動が下火になる1990年代以降にも継続され、その渦中ではさらに多くの犠牲者が生み出された。 一方、遺族という存在が運動を鼓舞するのを恐れた当局は、朴鍾哲や李韓烈といった自分たちが手にかけた被害者の遺族に対しても行動監視という弾圧を加え続けた。つまり「1987」が描く抑圧と暴力の世界は、当事者たちにとっていまだ過ぎ去らない過去なのである。 また「漸進的民主化」の段階では、民主的制度による選挙戦で、「北の脅威」を煽動して強権政治に隷従させる権威主義や、地域感情を鼓舞する縁故主義など、反民主的規範を流用することで反民主的政権を誕生させてしまうこともある。 1987年末、初となる大統領直接選挙で選ばれた軍人出身の盧泰愚(ノ・テウ)政権がそうだった。国民の多くは決して軍事政権の継承を望んだわけではない。だがオリンピック開催を翌年に控え、選挙の直前に起きた大韓航空機爆破事件が「テロの脅威」をかき立てたのだ。盧政権の5年間には苛烈な公安統治が敷かれ、1991年春にはデモ隊の学生の一人が機動隊に殴殺されるという事件も起こった。 1987年末の選挙では、軍を出自とする盧泰愚とそれ以外の候補者を差異化する指標として「文民政権」なる言葉がメディアに躍った。1993年、金泳三政権が30余年ぶりの文民政権として鳴り物入りで出帆する。 だが「軍事政権/文民政権」の二分法が目くらましとなり、結局、韓国民は、李明博と朴槿恵を大統領にしてしまう。“軍事文化を内面化させた文民政権”である両政権下では、巧妙に洗練された権威主義の暴政が猛威を振るった。 李明博時代、デモ隊に浴びせる催涙弾は放水銃に替わった。また人事介入によるメディア支配やブラックリストによる芸術検閲など、一般国民の目に触れにくいところで、物理的な暴力行使によらないソフトな圧制が少しずつ敷かれていった。 では、朴鍾哲事件で明るみになった拷問はどうか。それは一般国民の関心から遠い存在である脱北者を標的に、高い塀に囲まれた国情院の密室で、いわば二重の死角の中で物理的な暴力そのものとして行使された。その実態を被害者が初めて告発したのは朴槿恵時代の2013年のことである。これは、かつて朴正煕政権が在日韓国人留学生たちを標的に捏造した数々のスパイ事件の焼き直しである。 韓国の民主化は、なぜ「漸進的民主化」とならざるをえなかったのか。それは骨の髄までしみついた権威主義的な政治文化が、民主化の内面化を阻んだからだ。権威主義に立つ軍事文化の積弊は独裁時代の残滓である。 しかしこれは遡れば、日本帝国主義の残滓でもある。1945年の解放後、分断の混乱をへての国家再建過程で、日本統治時代の遺制とともに軍隊や警察にはびこる暴力的体質が、韓国の軍隊や警察にそのまま相続されたのだ。