『ランボー』アクションヒーローというよりアンチヒーロー!? 乱暴なだけではない傑作 ※注!ネタバレ含みます
ランボーが命を懸けて訴えたものとは?(注:ネタバレあり)
ベトナム戦争後、PTSDの帰還兵を題材とする多くの社会派映画がつくられた。『帰郷』(78)、『ディア・ハンター』(78)は、その代表例。『タクシードライバー』(76)でロバート・デ・ニーロが演じた主人公もベトナムから帰還したタクシー運転手で、PTSDという言葉では語られないが、明らかに病んでいる。国のために戦ったのに、帰国しても自分を受け入れてくれる場所がない。これはランボーも同様だ。余談だが、『タクシードライバー』はアカデミー賞の作品賞にノミネートされたが、このときの受賞作は『ロッキー』である。 さて、何も悪いことをしていないのに民衆の敵に祭り上げられたランボーは山にこもり、たったひとりで戦い続ける。ここからがアクションの見せ場。断崖絶壁でのヘリとの攻防や、放たれた警察犬への抵抗、山に仕掛けたおとりや罠。ランボーがゲリラ戦のプロで、サバイバル能力にも長けていることは、事件の収束のためにやってきた、かつての彼の上官であるトラウトマン大佐の口から明かされる。この町は敵にしてはいけない男を敵にした。そこにアクション映画としての痛快さが宿る。 途中こそ痛快だが、本作の肝はそこではない。多くのベトナム帰還兵映画と同様に、社会が帰還兵たちにどんな仕打ちをしてきたかが明かされる。“人殺し”と呼ばれ、まともな仕事に就くこともできない。平和なはずの祖国アメリカでどう生きればいいのかわからない。“家に帰りたい”と言っていた戦友は目の前で無残に死んだ。そんな悪夢のような記憶に今もさいなまれている。こんなことなら、戦場で生きる方がマシだーーラストで泣きながらトラウトマン大佐に訴えるランボーの叫びは、あまりに悲痛だ。
アクションヒーロー前夜の“人間”ジョン・ランボーの悲哀
全米公開時、『ランボー』は好意的な評で迎えられた。それ以前の『ロッキー』シリーズ1~3作目には及ばなかったものの、重いテーマを含んだ作品としては興行的にも悪くない成功を収める。1,500万ドルでつくられた作品が4,700万ドルの全米興収を記録し、世界的には1億2千万以上の興収を上げたのだから、続編か作られるのはある意味、必然だった。 折しも、アメリカはレーガン政権下の右傾化の時代。第2作『ランボー/怒りの脱出』(85)は、前作の“国家に利用された男”の哀感を踏襲しつつも、より大きくアクション方向に舵を切り、シリーズ最高のヒットを記録。この特大ホームランによってスタローンはアクションスターの地位を確固たるものにする。ジョン・ランボー、いやシルヴェスター・スタローンは強いアメリカの象徴となった。そして3作目の『ランボー/怒りのアフガン』(88)では哀感は払しょくされ、アクションエンタテインメントにシフトチェンジする。 ジョン・ランボーというキャラクターに対して、無敵のヒーローというイメージを抱いている人は少なくない。戦場では容赦なく敵を抹殺する。しかし、少なくとも1作目はアメリカン・ニューシネマのような社会性と悲哀に満ちた作品であり、ランボーはどうしていいのかわからず泣きじゃくる。ヒーローとは言い難い存在、すなわち生身の人間だったのだ。 文: 相馬学 情報誌編集を経てフリーライターに。『SCREEN』『DVD&動画配信でーた』『シネマスクエア』等の雑誌や、劇場用パンフレット、映画サイト「シネマトゥデイ」などで記事やレビューを執筆。スターチャンネル「GO!シアター」に出演中。趣味でクラブイベントを主宰。 (c)Photofest / Getty Images
相馬学