伊藤忠と丸紅はかつて同じ会社だった。「日本初商社」の創業者は何を考えていたのか
「利益三分主義」
初代忠兵衛は30歳になった1872(明治5)年、大阪の本町に呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を開く。呉服とは絹織物、太物とは綿織物、麻織物のこと。 ただ、ここでも小売りではなく地方から買いに来た小売商に卸販売するのが紅忠の業務だった。店とは言うものの、実際は衣料品、雑貨を卸売りする会社の本社機能と言っていい。 店を開き、従業員を雇ってから、初代忠兵衛は近代的な経営に乗り出す。社則を定め、店法を制定し、経営の合理化と組織化を図った。 店法には社員の義務と権限が定められていた。明治5(1872)年である。維新から5年目で、その年、全国の戸籍調査が行われ、日本の総人口が3480万人だった。 新橋、横浜間に鉄道が開通、そして、人身売買の禁令が布告された。禁令が布告されたとは前年までは堂々とやっていたことになる。 なお、明治天皇が初めて牛肉を食べたのも明治5年だ。 そんな時代、忠兵衛は紅忠に店法を作り、利益三分主義を定めたのである。利益三分主義とは店の純利益を本家納め、本店積⽴、店員配当の3つに「均等に」分配するというもの。 令和の現在でも企業経営者のなかには「会社の財産は竈の下の灰までオレのものだ」と考えている人間がいる。家族主義を謳いながら、社員の給料を低く抑えている経営者もいる。 だが、初代忠兵衛は本家納め、つまり自分の懐に入る金と社員に分ける金を均等にしている。なかなかできることではない。
「ひとりの息子を育てるよりも百人の子どもを育てたい」
それにとどまらない。会議制度を取り入れたり、高等教育を受けた学卒社員を入社させた。保険制度の利用もしている。開明的な経営者であり、従業員のことを考える優しい経営者だった。
野地秩嘉