伊藤忠と丸紅はかつて同じ会社だった。「日本初商社」の創業者は何を考えていたのか
世界的な原料高騰が続く中、追い風を受ける日本の商社業界。中でも伊藤忠商事は財閥系以外の総合商社として時価総額を大きく伸ばしている。なぜ、伊藤忠は圧倒的な成長を遂げているのか。その答えの一つは、創業以来受け継がれてきた「商人」としての心構えにある。 【全画像をみる】伊藤忠と丸紅はかつて同じ会社だった。「日本初商社」の創業者は何を考えていたのか 本連載では、岡藤正広CEOをはじめ経営陣に受け継がれる「商人の言葉」を紐解きながら、伊藤忠商事がいかにして「商人」としての精神を現代に蘇らせ、新たな価値を生み出しているのかを深掘りしていく。
「持ち下り──総合商社の仕事のプロトタイプ」
総合商社の伊藤忠と丸紅を作ったのが初代の伊藤忠兵衛だ。 忠兵衛は江戸時代の末期、天保13年(1842年)に生まれた。同時期に生まれたのが渋沢栄一(2歳年上)、伊藤博文(1歳年上)、大山巌(同年生まれ)といった維新の英雄たちである。 初代忠兵衛は幕末、明治維新を乗り越えて現在まで続く総合商社の礎を築いた人物だ。最強の近江商人である。 初代忠兵衛は滋賀県の琵琶湖の犬上郡豊郷(とよさと)村八目(はちもく)に生まれ、15歳になって元服してから近江特産の麻布類を持って卸売り販売の旅に出た。これを持ち下りという。 「持ち下りとは商品携帯出張卸販売のことで、小売行商とは違う」(『伊藤忠商事100年』) 行商とは小売りのことで店舗を持たない商人が一般消費者に直接、モノを売ること。一方の持ち下りは卸販売、すなわち商社の仕事の原型だ。 初代忠兵衛は近江から京都、大阪を経由して瀬戸内海を通り、北九州まで販売に出かけた。主な商品は麻布である。現在では麻布、麻製品は夏のおしゃれな衣料となっている。 しかし、木綿が盛んに生産されるようになったのは明治に入ってからだ。 それまでの間、麻布はさまざまな用途に使われた。衣類を始め、下駄の鼻緒の芯縄、畳糸、建材、網や酒の搾り袋などに用いられた。そして、衣類用の麻は冬でも温暖な関西から、中国、四国、九州で使用されたのだった。