内地の子どもたちも頑張っているよと懸命に描いた慰問の絵から、教師は赤い太陽をナイフで削り落とした。夜明け前からやっているとのメッセージにしたかったのか。国全体が暗かった。【証言 語り継ぐ戦争】
■黒岩けい子さん(89)鹿児島市西坂元町 【写真】「戦争を通して命のありがたさを実感している」と話す黒岩けい子さん=鹿児島市
田布施村(現南さつま市金峰)で、11人きょうだいの7番目として生まれた。現在も携わっているが、幼少期から絵が得意だった。多夫施(たぶせ)国民学校時代は、戦地の兵隊に送る慰問袋に入れる絵をよく描かされていた。 寒い時期だったと思う。児童がはだしで道路を走り、体を鍛えている様子を描いた。背景には金峰山と昇る朝日。しかし、教師は絵を見るなり、クレヨンで描かれた赤い太陽をナイフで削り落とした。 理由は言われなかった。今思うと、内地の子どもも夜が明ける前から頑張っているというメッセージにしたかったのではないだろうか。国全体が暗い時代だったと思う出来事だ。 実家は南薩線の南吹上浜駅と北多夫施駅の間にあった。線路の近くだったので、列車を狙ったアメリカ軍機の「タ、タ、タッ」という乾いた機銃掃射の音を聞いたことがある。ただ、地域で大規模な爆撃は経験がなく、差し迫った恐怖を感じたことはなかった。
10歳だった1945年の夏休み、避難命令が出た。近くの吹上浜に米軍が上陸するというのだ。後になって志布志湾、宮崎海岸を含めた南九州上陸(オリンピック作戦)を、アメリカやイギリスなどの連合国軍が予定していたことを知ったが、当時は何も分からず高台の笹連(さざれ)国民学校を目指した。 暑い日差しの中、馬車や手押し車に家財道具を載せて、父母やきょうだい、集落の人たちと山道を急いだ。半日近く歩き続けたはずだか、普段あまり家にいない父もいたことで、私たち子どもはお出かけ気分だった記憶しかない。しかし、夫が硫黄島で戦死し、幼子を抱えていた14歳上の姉は「避難の準備も道中も、それは大変だった」と今でもぼやく。結局、敵艦は現れず、学校に1泊しただけで全員帰宅した。 実家の二木家は土地持ちで、戦時中でもひもじい思いをした記憶はない。一方、村の倶楽部(くらぶ)=公民館=に駐在していた陸軍の食料事情、衛生事情は厳しかったようだ。食料を求めてわが家にこっそり来る兵士もおり、母がいり大豆などを用意していたことを覚えている。その部隊で赤痢がはやり、わが家でも四つ下の妹が感染して6歳で亡くなった。
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