内地の子どもたちも頑張っているよと懸命に描いた慰問の絵から、教師は赤い太陽をナイフで削り落とした。夜明け前からやっているとのメッセージにしたかったのか。国全体が暗かった。【証言 語り継ぐ戦争】
六つ下の弟によると、兵隊らは畑の中に隠れて、戦車に見立てた物体に模擬手りゅう弾を投げる訓練などをしていたそうだ。彼らが訓練後、あぜに寝転んで畑のトマトをこっそり食べていた姿が、なぜか印象に残っている。 大工だった父は終戦時50歳を超えており、召集されなかった。兄2人は幼少期に赤痢で亡くなったので、家族に従軍犠牲者はいない。ただ、結核で療養中だった2番目の姉が、終戦の2カ月後に22歳で亡くなった。その後、復員した男性から姉宛てに結婚を申し込む手紙が届き、両親は泣き崩れた。戦争の残酷さを感じた。 幸い102歳、99歳の姉と87歳の妹、84歳の弟は元気で、連絡を取り合っている。現在のウクライナやパレスチナ自治区ガザの例を挙げるまでもなく、戦争は多くの犠牲・悲劇を生み、生活を破壊する。絶対にしてはならない。 一方で、戦争という時代背景があったからこそ、6人の子がいてなお父が男子を望み、7人目の私が生を受けたことに思いをめぐらせると感慨深い。これからも命を与えられたことに感謝しながら、人生を歩んでいきたい。
(2024年9月13日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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