黒岩けい子さんの実家、二木家の集合写真。中段中央付近に祖父母が並び、祖母に抱かれているのが2歳のけい子さん=1937年ごろ(黒岩さん提供)(南日本新聞社)
内地の子どもたちも頑張っているよと懸命に描いた慰問の絵から、教師は赤い太陽をナイフで削り落とした。夜明け前からやっているとのメッセージにしたかったのか。国全体が暗かった。【証言 語り継ぐ戦争】
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