大阪唯一の「掩体壕」など 戦争遺跡を辿る案内人の思い
「河内の戦争遺跡を語る会」代表の大西進さん
大阪唯一の「掩体壕」など 戦争遺跡を辿る案内人の思い THEPAGE大阪 執筆:岡村雅之 撮影編集:柳曽文隆
掩体壕(えんたいごう)。第2次世界大戦中、戦闘機などを敵機の攻撃から守るため、全国各地に築かれた格納庫だ。終戦後、大半は解体され姿を消したが、大阪府では八尾市内に1基だけ残っている。掩体壕はいつごろどのようにして作られたのか。掩体壕を手掛かりに調べていくと、巨大な飛行場と連動して軍需用航空機材を生産するものづくりのまち八尾の姿が浮かび上がってくる。労作「日常の中の戦争遺跡」の著者で、「河内の戦争遺跡を語る会」代表の大西進さんに案内役を依頼し、取材班は八尾の戦争遺跡を辿った。
大阪府下に唯一現存する掩体壕
近鉄信貴山口駅前に広がる八尾市黒谷の閑静な住宅街。西の眼下に大阪平野が広がり、遠くあべのハルカスも見渡せる。大西邸を訪ねると、大西さんは八尾市内の地図を広げて、戦争遺跡の位置関係について語り始めた。八尾の立体的地形が掩体壕の成立や分布と関係があるという。 「現在の八尾空港に旧陸軍の大正飛行場があり、八尾空港の3倍の広さを誇っていた。第11飛行師団の司令部が置かれ、本土防衛の拠点だった。迎撃用戦闘機のための格納庫を滑走路の周辺に設置。計画に基づいて出撃する大型機のための大規模な掩体壕は、敵機が発見しにくい生駒山ろくの山すそに、南北に並ぶようにして築造された。唯一現存するのが垣内の掩体壕です」(大西さん) 掩体壕へは誘導路を作り、人力や牛で引いて飛行機を移動させる。大正飛行場から垣内掩体壕まで、直線距離にして約3.5キロ。大西さんは当時を知る地域住民らの取材を通じて、延べ4.5キロの搬送ルートをほぼ特定した。大正飛行場から垣内の掩体壕へ向け、地図の上を指先でなぞる大西さん。戦時中の緊迫感がよみがえってくる。
戦時中はドーム屋根に土を載せてカムフラージュ
東に高安山を背負う垣内地区。住宅街の一隅に農園が広がり、掩体壕が身を隠すように現存する。西からアプローチすると、コンクリート製の屋根が見えてくるが、農園の緑にまみれて、気づきにくい。戦時中は高安山ろくにつながる山林で、上空から来襲する敵機の目をくらますため、屋根の上に土を載せて擬装していた。私有地であり、大西さんを通じて農園主の事前了解を得て、園内に入る。 掩体壕に近づくと、大きさに改めて驚く。空からながめる平面形は後ろが狭く、前が広い扇型。飛行機を尾翼から後ろ向きに格納するからだ。正面から見るとドーム型で、正面開口幅は内法23.2メートル、高さは6.0メートル、奥行きは10.2メートルにおよぶ。 しかも、戦後に前方部が崩落し、現存するのは後方部だけだ。完成時の形状を復元すると、正面開口幅28メートル、奥行き21メートルに達するという。容量が今の4倍ある空間で、二式複座双発戦闘機「屠龍」や四式重爆撃機「飛龍」をゆったり格納できた。 「コンクリートの断面を見ると鉄筋の割合が少なく、物資が不足する中、緊急の工事だったのではないか。一方で、ドーム内側の仕上がりはきれいで、むずかしい工事をこなす技術力があったと思われます」(大西さん) 地元の古老によると、築造後の垣内掩体壕が利用された形跡は確認されていない。戦局が悪化し、格納すべき飛行機が減少したためと考えられる。この垣内掩体壕に隣接して、ひと回り小さい別の掩体壕の一部土台が残されている。